うので御座いますよ。ほんとに気が置けなくて……それにまあいつも晴々した見晴らしで御座いますこと……オヤ坊ちゃんおとなしですこと……一寸|入《い》らっしゃい、抱《だ》っこしましょう」
 と口では云いながら、内心実はつまらない。長居したくない。ほんの義理で来ているので、うちにはまだ用事がドッサリあるとノツソツしていると、眼や口はニコニコしながら鼻だけどことなくソワソワしております。
 デリケートな相手になると直《すぐ》にこれに感じて、ちっとも落ち着かぬまますっかり落ち着いたふりをして、
「ホントニ御ゆっくり遊ばせな。お久し振りですから」
 とか何とかバツを合わせながら障子の蔭で鼻の頭をイライラさせつつ、急いでゆっくりとお茶やお菓子を出します。
 双方のびやかにお茶を嘗《なめ》てお菓子を嗅いで眼や口を細くして語り合いながら、お互いの鼻同志はとっくに気がさし合ってウンザリしている。いい加減シビレが切れたところで、
「アノ……では……又」
「アラまあお宜しいじゃ御座いませんか」
 と立ち上って玄関へ出る。ここで初めてどちらもホッとした鼻の表現を見せ合いながら、イソイソと出て行かれる。一方はサッサと引込まれるといったような御経験は、特におつとめの些《すく》ない、率直を重んぜられる吾が日本の御婦人方にとってお珍らしいであろうと考えられます。
 田舎から出てきた叔父さんが天下泰平の長逗留をする。これに閉口した若夫婦が、
「お国のお子さん方は淋しいでしょうね」
 と親切そうに云う時の鼻の表現を見損ねた叔父さんは、
「有難う。そのうちに学校が済んだら三人共呼び寄せるかね」
 と飛んでもない感謝を表明する事になります。その時に見合わせる若夫婦の鼻の表現……。
「死にたい、死にたい」
 と云いながら死にたい気ぶりも見えぬ姑の鼻。どうぞそう願えますなら――と云いたい一パイのところを、
「アレ、又あんな事。後生ですからおっしゃらずに」
 と打ち消す嫁の取りなし顔の鼻の表現。そこに起こる明暗|二《ふ》た道の鼻の表現の撫で合いとつつき合いは、あまり有りふれ過ぎております。
 寧《むし》ろ姑の方でニヤニヤ笑いながら、
「私はノラ見たいな女が好きだよ」
 というキルク抜式の鼻の表現――これに対するお嫁さんがまたエヘヘンと云う見得で、
「私は矢張り乃木大将の夫人式が本当と信じますわ」
 と応《こた》えるサイダ抜式鼻の表現――この対照の方が表現派向きかも知れませぬ。

     鼻と実社会
       ――鼻の動的表現(十一)

 こうして鼻の表現は、その大小、深浅、厚薄取り取りをそのままに、無意識の裡に相手に感応させております。相手も又無意識のまま感応に相当する意志や感情を動かしてその鼻に表現しているのであります。
 この点に気付かない人が多いのと同比例に、世の中の事が思い通りに行かぬ人が多いらしいのであります。そうしてそこに鼻の表現の使命が遺憾なく裏書きされているのであります。
「おれがこんなにお百度を踏むのに、彼奴《きゃつ》は何だって賛成しないのだろう」
「妾《わたし》がこれだけ口説いているのに、あの旦突《だんつく》は何故身請してくれないのだろう」
「親仁《おやじ》はどうして僕を信用してくれないんだろう」
「彼奴《きゃつ》威《おど》かしても知らん顔していやがる」
 なぞよく承わる事でありますが、これはさも有るべき事で、御本人の誠意が無い限り鼻が決してその誠意を裏書きしてくれないからであります。お向う様を怨むよりお手前の鼻に文句をつけた方が早わかりかも知れませぬ。このほか……
「親仁は癪に障るけど、おふくろが可哀相だから帰って来た」
 という意気地無しの土性骨。
「奥様がおかわいそう」
 という居候のねらい処。
「一ひねりだぞ」
 と睨む空威張。
「会いとうて会いとうて」
 という空涙。いずれもすっかり鼻に現われて相手の反感を買っているのであります。
 しかもこうした鼻の表現の影響は単に差し向いの場合に限られたものではありませぬ。もっと大きな世間的の行事又は社会的の運動――そんなものにも現われて、その如何に偉大深刻なものであるかを切実に証明しているのであります。
「資本家を倒すのは人類のためだ」
 と揚言しながら「実はおれ自身のためだ」というさもしい欲求――
「労働運動は多数を恃《たの》む卑怯者の群れだ」
 と罵倒しながら「おれの儲け処が貴様達にわかるものか」という陋劣《ろうれつ》な本心――
「多数党如何に横暴なりとも正義が許さぬぞ」
 という物欲しさ――
「本大臣は充分責任を負うております」
 という不誠意――
 どれもこれもその云う口の下からの鼻の表現に依って値打ちは付けられて、天下の軽侮嘲弄を買い、同時にその成功不成功を未然に判断させているのであります。
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