た色を見せております。
小田原評定の場合なぞ、真中へ出て理屈をこねまわしている鼻が案外無責任らしく見える一方に、隅っこで黙って聞いている鼻が却《かえ》って頼もし気に見える事なぞはよくあります。
こんな例は挙げたら限りも無い事でありますからこれ位で略します。
いずれにしても、鼻が如何に忠実に各種の表現の主役をつとめているものであるか。その補助機関が如何に誤魔化そうとしても鼻の表現ばかりは偽る事が出来ないものであるという事は、右に挙げました実例だけでも一通り説明し尽されている事と信じます。
極めて大掴みに考えて見ますと、鼻以外の表現はその人の上《うわ》っ面《つら》の表現だけを受け持っているもののようであります。偽ろうと思えば偽り得る範囲に限られていると見て大した過ちは無いようであります。
それ以外のものは全部鼻が受け持って表現していると考えてよろしいようで、しかも又この任務は断じて奪う事は出来ないのが原則と認めて差し支えありませぬ。手で撫でても、ハンケチで拭いても、又は別誂えの咳払いをしても、鼻の表現ばかりは掻き消す事も吹き払う事も出来ないのであります。
よく出鱈目や茶羅鉾《ちゃらっぽこ》を云って他人を瞞着しようとする時又は気がさしたり図星を刺されたり素《す》ッ破《ぱ》抜かれたりした場合なぞに、手が思わず鼻の処に行ったり又は何となくエヘンが出たりするのは、鼻の頭の表現が無意識に気にかかるからで、何とかして誤魔化さねばその事実を鼻に裏書きされるか又は反証を挙げられそうな気もちから起った反射運動に他ならないのであります。
表現の受け渡し
――鼻の動的表現(十)
▼鼻の表現は眼にも止まらず心にも残らぬ。
▼しかも不断にその人の真実の奥底まで表現してソックリそのまま相手に感銘させている。
▼そして鼻自身は知らん顔をしている。
▼その相手の感銘にこっちの鼻以外の表現で瞞《だま》したり乱したりする事が出来る。
▼しかし鼻の表現だけは偽る事も誤魔化す事も出来ない。
この事実の如何に一般に認められていないかという事は驚くべきものがあります。それは恰《あたか》も一般人士が常に自分の鼻に導かれて歩行しながら、些しも鼻の御厄介になった覚えはないと考えておられるのと同比例しはしまいかと考えられる位であります。
同時にこの偽り得る表現と偽り得ない表現とが如何に入れ交《まじ》り飛び違って日常の交際に活躍していることでしょうか。舌筆に尽されぬ位複雑多角形な人類生活の各種の場面に出合った人々の、形容も出来ぬ位込み入った各種の表現が、如何に巧みに、或いは如何にゴチャゴチャと刹那的に行われつつある事でしょうか。そうして如何なる反応と共鳴とを交換しつつある事でしょうか。
「こんな高価《たか》い帯地が買えるものかね」
と番頭さんには云いながら、「欲しいわねえ」という鼻の表現を御主人に振り向けられます。御主人はさり気なく葉巻の煙をさり気なく吹き上げながら、
「そうだなあ」
と鼻だけニッタリとさせて、「ネーアナタ」を期待しておられます。序《ついで》に「些し困るけどお前のためなら」という恩着せがましい表情を鼻の御隅《おんすみ》に添え付けておられる……といったような場面はちょいちょい拝見するようであります。この表現を見分けるか見分けぬかが又番頭さんの腕前の分かれるところで、この潮合に乗りかけて、
「その代り柄や色合はしっかり致しておりますから却《かえ》って御徳用でゲス。第一|見栄《みばえ》が他のものとは全く御覧の通り違いますから……近頃ではどなた様も消費経済とかいう思召《おぼしめし》で却ってこのようなのが、エヘヘヘヘヘ」
とか何とか思い切って踏ん込めば、最後の「ネーアナタ」と「止むを得ぬ」とを同時に占領する事が出来るのであります。
「あなたの御蔭で私は起死回生の思いを致しました。御鴻恩《ごこうおん》は死んでも忘却致しませぬ」
「どう致しまして。畢竟《ひっきょう》あなたの御運がいいので……何しろ結構で御座いました」
というような会話が如何にもまことしやかに取り換わされます。ところがお礼を云われた方では何だか物足りないような気がしている。
「あいつどうも本当に有難がっていないらしい。世話をして見ると案外軽薄な奴に見える。一寸一杯喰わされたかな」
という一種の不愉快と不安が湧いている。そのような場合はきっと相手の鼻が衷心からの感謝の意を表明していないためで、
「こう云っときゃあ喜ぶだろう。又頼む時にも都合がいいから」
位の有難さしか感じていないその熱誠の度合いがそっくりそのまま鼻の頭に顕《あら》われていて、その眼や口が表現している熱度よりも著しく低い度合を示しているからであります。
「お宅に伺いますとついのんびりして了《しま》
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