にぶつかって「到底|叶《かな》わぬ」と気が付いたり、又は物の見事にしくじったりした場合なぞに心の底の悲観や落胆が鼻に現われたもので、何だか鼻の頭の油の気や毒気がスーッと抜けて行くような気がするものだそうであります。
古い文章なぞに「鼻うちかむ」という言葉があります。これは何かに非道《ひど》く感激同情した涙ぐましい鼻の表現を形容したものらしく思われます。涙というものは沢山に出ると涙管から吸い込まれて鼻の方へ抜けて来るものだそうで、その辺からこんな言葉が出たものかも知れませぬ。お芝居で孝行者に同情した近所の者なぞは矢鱈《やたら》に鼻をこすり上げます。又忠臣を手討ちにする殿様やそれを憐れむ奥方なぞがそっと鼻の下に手を当てます。つまりこうしてこうした舞台上の鼻の表現を補《たす》けるためではないかと考えられます。
「鼻であしらう」というのは頗《すこぶ》る簡短明瞭で、相手を頭から相手にしない軽蔑し切った表現を云ったものでありましょう。
「鼻つき合い」というのは、これが両方からブツカッてスパークを発した場合で、局外者から見るとハラハラするような、面白いような表現を双方から見せ合っているものであります。
「鼻につく」という言葉は、始めのうちは珍らしさに紛《まぎ》れていた臭味《くさみ》がだんだんとわかって来てうんざりした、嫌になった、飽き飽きしたという、多少前の「鼻|白《じろ》む」というのと似通ったような表現であります。これが極端になると普通の嫌なものに出合った時と同様に「鼻をしかめる」、もっと高潮すると「鼻をそむける」なぞいう表現にかわります。又同じような表現で「鼻をつまむ」というのは臭いという意味から転化したもので、「鼻もちならぬ」という表現に手の表現を添えたものであります。尚「鼻つまみ」というのは、主として人物に対してのみ用いられる形容詞で鼻の表現ではありませぬが、鼻の表現から転化したものである事はいう迄もありませぬ。
尚これは少々コジ付けの嫌いがありますが、「鼻ぐすり」という言葉があります。この種の薬を用いるのに何も特別に鼻という文字を担ぎ出さなくともよさそうに思われるのでありますが、実はしっかりした拠り処があるのであります。
つまり相手が兼ねてから見せていた「不賛成」とか「怪《け》しからん」という不快な鼻の表情が、このお薬を用いると遠からずか忽ちにかボヤケてしまって、曖昧な表現にかわります。トドのつまり、まあ考えて見ようから「止むを得ぬ」程度までに変化して終《しま》うから、かように名前をつけたものと推察されるのであります。つまりこの薬が如何に相手の感情に利《き》いて、その鼻の表現に如何に芽出度い変化を及ぼすかという事が、無意識の中に一般に認められているからでありましょう。
以上は主として感情から来た鼻の表現の中《うち》で昔から言い慣《な》らわして来た言葉を拾い出したものでありますが、またこの他に刹那的又は半永久的もしくは永久的に現われる意志や性格又はそれ等のすべてを綜合した鼻の表現として認められているものも些くないのであります。「鼻を明ける」とか「鼻を明けてくれる」とかいう言葉なぞはその代表的なものの一つで、一方の決然たる意志を示すと共に、相手方の高慢チキな鼻の表現が引《ひっ》くり返って「アッケラカン」と空虚になった鼻の表現を期待した言葉であります。
「鼻を折る」とか「折られる」とかいうのもこれと同様の意味で、こちらの「どうするか見ろ」とかかって行く意気組と共に、先方の同じような突張り返った鼻の表現がタタキ落とされるかヘシ曲げられるかして、「もう堪忍」とか「無念」とかいうセンチメンタルな表現になるのを形容した言葉であります。
「鼻息が荒い」というのは、決して凹《へこ》まないという猛烈な意気組が鼻の先に横溢して、意志や感情の風雨雷電をはためかしているのを鼻息になぞらえたものでありましょう。
「鼻っ張りが強い」という言葉は、「五分も引かぬ」「理が非でも勝つ」という意志が鼻っ柱に充実している場合を指す事は明らかであります。見様に依ってはこの表現が如何なる場合にも連続して発揮されるため、その本人の性格の象徴として認められているものとも考えられるのであります。
「鼻息を殺す」という形容詞も同様に鼻の表現の一つとして認められ得るのであります。これは「息を凝《こ》らす」とか「詰める」とかいう言葉の代りに用いられるので、それよりももっと緊張した感じを見せる表現として認められているようであります。即ち「息を殺す」という方は他人の武術や運動の勝敗なぞを見る時に主として用いられるようでありますが、「鼻息を殺す」という気分は直接自分に利害関係のある問題に対して現わす事が多いようであります。つまり形勢|奈何《いかん》とか様子如何にというような場合に自分
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