無意識の裡《うち》に認められて、無意識の裡に行われておりまするために、今日鼻の表現なる言葉を標示する事が、甚だ事新しい奇異な感じをそそるに過ぎないのであります。
事実上鼻の表現なるものに就いて真正面から堂々と論じてある例はあまり見当らないようであります。
しかしそれでも鼻という文字や言葉を使って鼻の表現の存在、方法、価値なぞいうものを端的に裏書してある実例はかなり発見する事が出来るのであります。
劈頭《へきとう》第一に掲げなければならぬのは、能楽喜多流の『舞い方及び作法の概要』と名づくる心得書の中に示されてある「鼻の表現」に関する一|齣《せつ》であります。
既に人が舞台に立って舞いを舞うという場合にその姿勢をどうしたら乱さずに保てるか、その眼や口の表現は如何なる心の落ち着きに依って正しく発露する事が出来るかという事から芸道の活き死にを説明してある中で「鼻」という項にこんな事が書いてあります。
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鼻は不動のものなれば心するに及ばざる如くなれども、鼻うごめかすと俗にも云ふ如く心の色何となく此処《ここ》に映《うつ》るものなり、心に慢《おこた》りある時の如き最もよく鼻にて知らるゝものなれば意を止《とど》む可《べ》し(下略)
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この能楽というものはその開祖以来代々の名人が受け継いでは演練し、演練しては研究して些《すこ》しずつ改良を加えつつ次の代に残して行ったもので、つまり時代とか流行とかを超越した民衆最高の芸術的良心を対象物として永久に亘《わた》って完成に近付けて行かるべき民族的芸術だそうであります。それゆえにこれに就いて云い残された言葉は、いずれも数代を隔てて現出した名人たちが如何にもとうなずき合ったものばかり、一寸手軽く云っている一句でも、よく穿鑿《せんさく》して見ると非常に深遠重大な意義を含んでいるのだそうであります。
鼻の表現に就いての心得もその通りで、これだけの言葉のうちに代々の舞台上の聖人の惨憺たる研鑽の結果が籠《こ》められている事は申すまでもないのであります。
「心の色が鼻にうつる」
という事は取りも直さず鼻の表現の事であります。ここで成る程と早くも膝を打たれる人はやがてこの「心」と「鼻」とが如何に密接な「表現の関係」を持っているかという事を、如々実々に了解されるお方であります。
第一今の「鼻うごめかす」という事は、内心大得意の場合に「どうだ、おれはえらいだろう」という気持から鼻をうそうそさせる、又は「オホン」とか「ウフン」とかいう気分が鼻の頭の処に浮き出して来る事を云うので、別嬪《べっぴん》の奥様御同伴の時、競技で勝った場合、試験に及第した時、わけても芸自慢の方が舞台に立たれる時なぞによく見受けられる表現であります。
勿論この際その鼻の色合いや恰好は別にどうといって変化する訳ではありませぬ。眼や口とても格別鼻の表現に加勢をする訳ではないので、只チンと済ましてニッコリともしないのであります。そのままにこの気分がどことなく鼻の頭に浮き出して来るので、
「心の色が鼻にうつる」
とは如何にもよくこの間の兼ね合いを云い現わしてあると、今更に感心させられるのであります。さらに、
「心の底の慢《おこた》りが最もよく鼻に現われる」
という事は、本来この鼻の静的表現の中に自己の存在的価値を代表する意味がある。もしくは前に掲げました一説「人類文化向上のプライドを標示したいという内的刺激に依って出来た」という「鼻の進化論」なぞと関連しているように思われる。即ち鼻柱出現の第一の使命がその辺にあるために、こうした気分が動《やや》もすれば高潮して表現され易いのではないかと考え合わされまして、古人の研究の微妙さ又は鼻の表現研究の面白さに思わず一膝進めたくなる位であります。
意志、感情、性格
――鼻の動的表現(三)
しかし「鼻の表現」の実例はなかなかこれ位のものではありませぬ。小説、講談、文芸物、その他普通世間に云い伝えられていながら、鼻の表現としてはっきりと認められていない文句や言葉だけでもかなりの数に達するのであります。
「鼻にかける」という表現は、前の「鼻うごめかす」というのと同じような心理状態から出て来るものであります。「天下の色男は吾輩で御座い」なぞいうのがそれであります。持参金付きのお嫁さんなぞにもよくこの気持が出ているものだそうで、そのほか身分、容色、家柄なぞ、何でも本人の腹にあるものがこの気持ちの根拠地となるものらしく見受けられます。
「お天狗――鼻高々」なぞいうのは、この気持ちが今一層高潮して現われた場合の形容詞で、鼻が高かろうが低かろうがそんな事は些《すこ》しもこの気持ちの表現に影響しませぬ。
これに反して「鼻じろむ」というのは、強敵
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