の意志、感情、妄想なぞいうものをピタリと押え付けた気持ちを云ったものであります。かようするとその気持ちは平生とはまるで違って、眼はあらゆる注意力を奥深く輝かせ、口はあらゆる意志を一文字に啣《くわ》え込む。耳はすべての響に対して底の底まで澄み渡る。同時に鼻の頭のすべての表現は八方に消え失せて、只|無暗《むやみ》に強く深く冴え渡った緊張味だけが全身の気組を代表して残っているという事になるのであります。
 泥棒や掏摸《すり》、刑事、巡査、その他の司法官又は武術家、運動家なぞの鼻の頭には、この気分がコビリ付いてふだんに緊張した表現を見せているのがあります。
「鼻息を窺う」というのもこれに似た気分であります。但しこれは相手が人間であって、しかも自分よりも上手《うわて》に対して「鼻息を殺した」場合の形容詞と認めて差し支えありません。
 自分の鼻の表現を一切引き締めて、相手の気分の虚実に乗じてやろう、弱味があったらつけ込もう、強味があったら受け流そう、笑ったら笑ってやろう、泣いたら泣いてやろう、そうして相手を動かしてやろうというので、前に述べました「鼻ぐすり」の代りに掛け引き一つで行こうとする極めて徳用向きな――同時に千番に一番の兼ね合《あい》迄に緊張した鼻の表現であります。
 この表現を高潮させるには、先ず自分の性格、意志、感情なぞと同時に阿吽《あうん》の呼吸までも相手にわからぬようにソーッと殺して終《しま》うので、この辺は自分の「鼻息を窺っ」ているようにも見えます。同時に無意識にせよ有意識にせよ、相手の鼻の表現に対して極めて刹那的且つ連続的な注意力と理解力とを同時に集中して働かせていなければなりませぬ。それ程さようにデリケートな、そして或る一面から見れば暗い感じを持った鼻の表現で、時勢が進むに連れまして生存競争に打ち勝とうとするものは何人《なにびと》も是非共この表現の方法を一応は心得ていなければならぬものだそうでございます。
 主として性格を表わす分では、前に挙げました「鼻つまみ」の外にもっと主観的な形容の方では「鼻下長《びかちょう》」とか「鼻毛が長い」という言葉もあります。もあります位ではない、随分と方々で承わるようであります。
 御知合いの中《うち》においでになるかも知れませぬが、お美しい夫人を持たれて内心恐悦がっておられるお方や、すこし渋皮の剥《む》けた異性さえ見れば直ぐにデレリボーッとなられる各位の鼻の表現を指したもので、何も必ずしも具体的に鼻の下や鼻毛が長いという意味ではありません。唯そうした方々のそういったような心理状態を鼻が表現しているために、こういったような形容詞を用いたものらしく考えられるのであります。
 その証拠には事実上の鼻下長の方でも、随分鼻の下や鼻毛の切り詰まった方が多いのであります。これに反して鼻の下がレッテルの落ちたビール瓶のようにのろりとしていたり、鼻毛が埃を珠数つなぎにする程長かったりする人でも、猛烈に奥様を虐待される方があります。
 つまり異性に対して恍惚としていられる方の気持はともかくもダレていて、天下泰平ノンビリフンナリしているところがあります。そのために鼻の付近に緊張味が無くなって、鼻の穴が縦に伸びて中の鼻毛でも見えそうな気分を示すので、これは誠に是非も無い鼻の表現と申し上ぐべきでありましょう。
「鼻毛をよむ」というのは、こうした鼻の表現と相対性を持った言葉であります。但し鼻という言葉が使ってはありますが鼻の表現とは認めにくいので、先ず鼻の表現の副産物といった位の格でありましょう。ただその態度のうちに相手をすっかり馬鹿にし切って鼻毛までも数え得るという冷静さと同時に、上《うわ》っ面《つら》だけは甘ったれたのんびりした気分から鼻毛でも勘定して見ようかという閑日月が出て来る。その気持ちを代表した睡《ねむ》そうな薄笑いがそうした場合の女性の鼻の表現に上《のぼ》ってはいまいかと想像し得る位の事であります。
 これに反して純然たる性格を代表した鼻の表現の批評に「意地悪根性の鼻まがり、ぬかるみ辷《すべ》ってツンのめろ」という俚謡《りよう》があります。「ぬかるみ辷って」云々は余計な言葉のようでありますが、実は左様《さよう》でないので、相手があまり嵩《かさ》にかかって意地悪を発揮して来る、こちらを圧倒すべく鼻がイヤに下を向いて折れ曲って来るような感じを与える、此奴《こやつ》がツンノメッテヒシャゲてしまったら嘸《さぞ》いい心持ちであろうという心を唄ったもので、小供が大人にいじめられて安全地帯まで逃げ出した時なぞによくこんな事を云ってはやし立てているのを見受けます。
「鼻がつまったような奴」という形容詞は一寸《ちょっと》珍らしく感ぜられるかも知れませぬが、あるにはあります。これも前のと同様に純然たる性格の表現で、一
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