《からだ》のこなしや眼や口の表現は勿論、鼻の表現までも遺憾なく支配し得たものと認め得べき理由があります。
 泣く時は衷心から泣き、笑う時は腹の底から笑う。怒る時は鼻柱から眉宇《びう》にかけて暗澹《あんたん》たる色を漲《みなぎ》らし、落胆する時は鼻の表現があせ落ちて行くのが手に取るように見えるまで悄気《しょげ》返る。悠々たる態度の裡に無限の愁いを含ませ、怒気満面の中に万斛《ばんこく》の涙を湛《たた》え、ニコニコイソイソとしているうちに腹一パイの不平をほのめかす。
 これが所謂腹芸という奴で、こうして名優の心の底の変化は腹の底から鼻の頭へ表現されて、自由自在に見物に感動を与える事、恰《あたか》も無線電信のそれの如くであります……。しきりにシカメ面をして涙を拭う真似をしていながら、鼻だけはノホホンとしているために見物には何の感動をも与え得ないヘッポコ役者の表現法とは、その根底の在り処が違うのであります。
 彼等名優がどうしてこのような不可思議な術を弄する事が出来るかという疑問は、昔から既に解決されております。その人物になり切って[#「なり切って」に傍点]しまう――その境界になり切ってしまう――という芸術界の最大の標語がそれであります。
 その人物になり切ってしまう――見物の中にいい女がいようと、道具方が不行届であろうと、相手方がまずかろうと、人気があろうと無かろうと、そんな事は一切お構い無しに、すべての娑婆世界の利害損失の観念、即ち自己から離れてしまって、その持ち役の人物の性格や身の上を自分の事と思い込んで終《しま》う。その持ち役の人物と扮装と科白《せりふ》と仕草とに自分の本心を明け渡して終う。
 その境界になり切ってしまう――すべての実世間の時間と空間とを脱却して、舞台上の時間と空間に魂の底まではまり込んでしまう。舞台の道具立て、入れかわり立ちかわる役者の表現、そこに移りかわってゆく出来事と気分、そこにしか自分の生命は無いようになってしまう。

     実在する悪魔
       ――悪魔式鼻の表現(三)

 然るにここに、この名優式の鼻の表現法を堂々と実世間で御披露に及んで、名優以上の木戸銭や纏頭《はな》を取っているものがザラにいるのには驚かされるのであります。
 その主なるものは、毒婦とか色魔とか悪党とか又は横着政治家(政治家でいて横着でないものはあまりありますま
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