鼻というものは舞台の中心に置かれた作り物と見るべきが至当で、その場面の表現は他の役者が遣るからその作り物にも意義が出て来るのと同じわけのものではないか」
 この二つの疑問や反駁は詰るところ同じ意味で、誠に御尤《ごもっと》も至極な理屈と申し上げなければなりませぬ。
 事実上鼻はヒクヒクと動いたり、時々赤くなったり白けたりする外何等の変化も見えませぬ。
 仮りに「鼻の表現というものがあると云うから一つ正体を見届けてやろう」という篤志家があって、他人と向い合った時なぞに相手の鼻ばかりをギョロギョロと見詰めておられたとします。生憎《あいにく》な事にはそんな場合に限ってかどうかわかりませぬが、とにかく相手の鼻は何等の表現を見せませぬ。色や形を微塵もかえませぬ。
 これに反して眼や口や眉は盛んに活躍します。その表現はその変化の刹那刹那に悉《ことごと》く鼻を中心として焦点を結んで、こちらの顔に飛びかかって来るように思われます。
 しかし鼻はそんな場合でも吾不関焉《われかんせずえん》と済ましております。まるで嵐の中《うち》に在る鉄筋コンクリートの建築物のようで、只風景の中心の締りにだけなっているかの観があります。意志のお天気の変り工合や感情の風雲なぞの動き工合で色や形の感じが違って行くように見えるだけであります。
 ……矢っ張り鼻には動的の表現は無い……変化の出来ないものに表現力のあろう筈がない
 ……あっても他動的で自動的ではないにきまっている……
 という事になります。
 この観察は悉く中《あた》っているのであります。鼻は本来自動的には極めて単純な表現力しか持たない……本来無表情と見られても差し支えない事を鼻自身も直《ただち》に肯定するに吝《やぶさか》なるものでないと信じられるのであります。
 ところがその本来無表現を自認している鼻が、その本来無表現をそのままにあらゆる自動的表現をするから奇妙であります。有意識無意識のあらゆる方面に於ける内的実在もしくはその変化を、如何なる繊細深遠な範囲程度迄も自在に表現し得るから不思議であります。
 人間のあらゆる表現を受け持つ顔の舞台面に於て眉や眼や唇なぞが受け持つ役は実に無限と云ってもよろしい程であります。しかしその中にはどうしても鼻でなければ受け持ち得ない役が又どの位あるか判《わか》らないのであります。鼻が登場しなければ眼や口がいくら騒
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