かに囚《とら》われた時、その国家や民族の運命は下り坂となるのであります。
こんな風に観察して参りますと、この三つのお面が活躍する「お神楽《かぐら》」というものは、鼻の表現によって象徴された無自覚な性格の分解踊りとも見られるようであります。同時に馬鹿囃子という音曲の名前も、まことにふさわしいものとなって来るのであります。
かの三つの鼻の表現が、この馬鹿囃子に連れて動きまわる。極めて低級な芸術的価値しかない伝統的な踊りをおどる。そのつまらない単調子さのうちにどことなく騒々しいような、淋しいような――面白いような、自烈度《じれった》いような気がする。人生の或る基調に触れて人の心をひきつけるようなところがある。
……実は永遠に無自覚な人類生活の悲哀を「鼻の表現」と「馬鹿囃子」に依って象徴した最も哲学的な舞踊劇である、人生もしくは宇宙その物の諷刺である……という事を、舞っているものも見ている人も、知らずにいるのではあるまいかと考えられて来るのであります。
本来無表現
――鼻の動的表現(五)
この他《ほか》古今の文献、詩歌小説、演劇講談、落語俗謡、その他《た》の言語文章、絵画彫刻なぞいうもの、又は外国語等にも亘って調べましたならば、随分沢山の鼻の表現が現われて来るであろうと想像されます。しかし以上述べましただけでも「鼻の表現」は存在するものである、就中《なかんずく》その動的表現は意想外に夥《おびただ》しいもので、しかも顔面の表現の中《うち》で最も偉大な役割を勤めているものであるという事があらかた御諒解出来たであろう事を信じます。
しかし或る一部にはまだこの鼻の表現について疑いを有しておられる方が無いとも限りませぬ。
「それはそんな気がするだけで、コジ付けと云えば云われぬ事もないが」
と考えられる方がおられる事と思います。これはかような方面にあまり興味を持たれぬ方々の云い草でありましょうが、同時に「表現」とか「表情」とかいう方面に特殊の注意を払っておられる人々はかような疑問を挿まれはしまいかと推測されるのであります。
「鼻の表現というのは一種の錯覚に過ぎぬ。顔面の他の部分の表現が鼻を中心として飛び違うために、その十字線が丁度鼻の上に結ばって一種の錯覚を起すものである。強《あなが》ちに鼻ばかりが本心の動き方を表現し得るものでない。寧《むし》ろ
前へ
次へ
全77ページ中19ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング