の誇り、植物式の生活には囚われないのだ。俺を束縛し得るものは無いのだ。おれは物質的に死ぬるとも精神界に活躍したいのだ」
と宗教界、芸術界、哲学界や他の思想界なぞいう様々な霊界に飛び出してはねまわります。鳥のように天空を翅《かけ》り、獣《けもの》のように猛威を競います。そうして分相応の地歩を占めつつ、これが安全第一だと草葉にすだき、これが最高の自由だと雲に啼き渡り、これが最大の真理だと曠野に吼《ほ》えまわります。それぞれに露を吸い、果《み》を食い、又は草を噛み、血を啜《すす》って持ち前の声を発揮しております。或《あるい》は鼻の頭からやさしい長い触覚を出して、ソロリソロリと動かしながら、リンリンと人を哀れがらせ、嘴《くちばし》と鼻を兼帯にして阿呆《あほう》阿呆と鳴き渡り、又は百獣を震い戦《おのの》かせんと鼻息を吹き立てております。
こんなのはヒョットコやおかめの鼻は免れても、天狗たる事は免れませぬ。もちろんスフィンクスから動物式に呪われている事は間違いないので、よく天狗の身体《からだ》が鳥や獣《けもの》になぞらえてあるのも、こうした感じを象徴したものではあるまいかと考えられるのであります。
但しこんなのは端《は》した天狗で、もっと上等の天狗になると、ちゃんと人間の形をして鼻ばかり高いのが出て来るのであります。これは精神的にも物質的にも囚われていないと自惚《うぬぼ》れた天狗様で、なかなか気の利いた通力を持っているものであります。
「外面的の生活に囚われた奴は人間の形をした植物である。又内面的な生活に囚われた奴は人間の心から動物に退化した奴である。何ものにも囚われぬ人間たる乃公《おれ》の支配下に属すべきものである。
彼等は皆悉くおれの用を達しに来た者である。そうしてみんなおれの厄介にならなければ、何の役にも立たない奴ばかりである。生まれた甲斐の無い奴ばかりである。こんな天狗たちは元来おれの同胞であり後輩である。弟子たちである。同時にこんな後輩たちは、それぞれその囚われた鼻の表現で、おれに囚われてはいけない事を身を以て教えてくれたものである。或る意味から云えばおれの家族、分身である。恐ろしく心配をかける奴ばかりである。
けれ共また、飽く迄も可愛い奴である。
此奴等《こいつら》がいないと、此方輩《こっちはい》は早速困る事になるのだ。
沙漠の中の一人ぼっちになるのだ
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