。自滅する外はないのだ。此奴等がいるので、吾々も生き甲斐があるというものである。
 それにしても此奴等がみんなおれ位にまでなり得たら、おれもどれ位気が楽になるか知れないがなあ。
 ――やれやれ――」
 と世界を見渡して、羽|団扇《うちわ》か何かで鼻の下を煽ぎながらニコニコと笑っております。
 こんな大々的の天狗様になると、もう無暗《むやみ》にそこいらにはおりません。鼻も当り前よりはすこし高くて大きい位で、顔もそんなに恐ろしくはありませぬ。その代り正体もなかなか見せませぬので、草になったり木になったり、土百姓に化けたり、旅僧の姿をしたりして、方々の小天狗共を凹《へこ》ませては、大天狗道に入らせようと努力しております。
 ……いつの間にか世界は、天狗様ばかりになってしまいました。
 中でも天狗の原産地たる吾国では、到る処の高山深谷に住んで、各《おのおの》雄名を轟かしております。先ず天狗道の開山として、天孫を導き奉った猿田彦の尊《みこと》の流れとしては、鞍馬山の大僧正が何といっても日本天狗道の管長格でありましょう。九州では彦山の豊前《ぶぜん》坊、四国では白峯の相模坊、大山《たいせん》の伯耆《ほうき》坊、猪綱《いのつな》の三郎、富士太郎、大嶺の善鬼が一統、葛城天狗、高間山の一類、その他比良岳、横川岳、如意ヶ岳、高尾、愛宕の峯々に住む大天狗の配下に属する眷属《けんぞく》は、
 中天狗、小天狗、山水天狗、独天狗、赤天狗、青天狗、烏天狗、木《こ》っ葉《ぱ》天狗
 といったようなもの共で、今日でも盛んに江湖専門の道場を開いて天狗道を奨励し、又は八方に爪を展《の》ばし、翼を広げて、恰《あたか》も大道の塵《ちり》の如く、又は眼に見えぬ黴菌の如く、死ぬが死ぬまでも人間に取り付いております。否、死んでも銅像や記念碑、爵位勲等、生花、放鳥又は坊主の頭数、会葬者の人数、死亡広告の大きさやお墓の高さなぞに取り付いて行こうとするのであります。
 世界のある限り、人間のある限り、天狗の取り付き処はなくなりそうに見えませぬ。

     無限大の呪い
       ――運命と鼻の表現(八)

 世界はいつになったら、これ等の呪われたる鼻の表現から救われる事が出来るでありましょうか――
 いつになったら馬鹿囃子が止む事でしょうか――
 スフィンクスはいつ迄も知らぬ顔をして、茫々たる沙漠を見つめております
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