梅津只圓翁伝
夢野久作

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)僅々《きんきん》

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(例)故|梅津只圓《うめづしえん》翁の

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(例)大※[#「やまいだれ+惡」、第3水準1−88−58]《おおべし》
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   梅津只圓翁の生涯


 故|梅津只圓《うめづしえん》翁の名前を記憶している人が現在、全国に何人居るであろうか。翁の名はその姻戚故旧の死亡と共に遠からずこの地上から平々凡々と消え失せて行きはしまいか。
 只圓翁から能楽の指導を受けた福岡地方の人々の中で、私の記憶に残っている現存者は僅々《きんきん》左の十数氏に過ぎない。(順序不同)
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牟田口利彦(旧姓梅津)、野中到、隈本有尚、中江三次、宇佐元緒、松本健次郎、加野宗三郎、佐藤文次郎、堺仙吉、一田彦次、藤原宏樹、古賀得四郎、柴藤精蔵、小田部正二郎、筆者(以上|仕手《して》方)
安川敬一郎、古賀幸吉、今石作次郎、金内吉平(以上|囃子《はやし》方)
小嶺武雄、宮野儀助(以上狂言方)
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 その他故人となった人々では(順序不同)、
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間辺――、梅津正保、山本毎、梅津朔造、同昌吉、桐山孫次郎、川端久五郎、上原貢、戸川槌太郎、小山筧、中江正義、粟生弘、沢木重武、斎田惟成、中尾庸吉、石橋勇三郎、上村又次郎、斉村霞栖、大賀小次郎、吉本董三、白木半次郎、大野仁平、同徳太郎、河村武友、林直規、尾崎臻、鬼木栄二郎、上野太四郎、船津権平、岩佐専太郎、杉山灌園(以上仕手、脇方。その他囃子方、狂言方等略)
[#ここで字下げ終わり]
 まだこの他に遺漏忘失が多数ある事と思う。氏名なども間違っている人があるかも知れないが筆者の記憶の粗漏として諒恕御訂正を仰ぎたい。
 その生存している僅かな人々と相会して翁の旧事を語ると誠に感慨無量なものがある。
 翁の一生涯は極めて、つつしまやかな単純なものであった。
 維新後、西洋崇拝の弊風が天下を吹きめぐって我国固有の美風良俗が地を払って行く中に毅然として能楽の師家たる職分を守り、生涯を貫いて倦まず。悔いず。死期の数刻前までも本分の指導啓発を念としつつ息を引取った……というだけの生涯であった。翁はその九十幾年の長生涯を一貫して、全然、実社会と無関係な仕事に捧げ終った。名聞《みょうもん》を求めず。栄達を願わず。米塩をかえりみずして、ただ自分自身の芸道の切瑳琢磨と、子弟の鞭撻《べんたつ》に精進した……という、ただそれだけの人物であった。
 もしも、それが聊《いささ》かでも実社会に関係のある仕事であったならば……又は同じ芸術でも、絵画とか、文章とか、劇とか、音曲とか多少世俗に受け入れられ易い仕事に関係していられたならば……そうしてあれだけの精彩努力を傾注されたならば、翁は優に一代の偉人、豪傑もしくは末世の聖賢として名を青史に垂れていたであろう。
 況《いわ》んや翁程の芸力と風格を持った人で、聊《いささ》かでも名聞を好み、俗衆の心を執る考えがあったならば、恐らく世界の文化史上に名を残す位の事は易々たるものがあったであろう。
 これは決して筆者の一存の誇張した文辞ではない。その当時の翁の崇拝者は、不言不語の中に皆しかく信じていたものである。そういう筆者も翁の事を追懐する毎に、そうした感を深めて行くものである。

 翁の偉大なる人格と、その卓絶したる芸風は、維新後より現在に亘る西洋崇拝の風潮、もしくは滔々《とうとう》たる尖端芸術の渦の底に蔽われて、今や世人から忘れられかけている。翁も亦《また》、不言不語の間にこの事を覚悟し満足していたらしい事が、その生涯を通じた志業の裡に認められる。そうして今は何等の伝うるところもなく博多下祇園町順正寺の墓地に灰頭土面している。墓を祭る者もあるか無しの状態である。その由緒深い昔の私宅や舞台も、見窄《みすぼ》らしい借家に改造されて、軒傾き、瓦辷り、壁が破れて、覗《のぞ》いて見ただけでも胸が一パイになる有様である。
 しかし翁の真面目はそこに在る。翁の偉大さ崇高さは、そうした灰頭土面の消息裡に在る。生涯の光輝と精彩とを塵芥、衆穢の中に埋去して惜しまなかったところに在る。
 画に於ける仙崖、東圃、学に於ける南冥、益軒、業に於ける加藤司書、平野次郎、野村望東尼は尚|赫々《かっかく》たる光輝を今日に残している。しかも我が梅津只圓翁の至純至誠の謙徳は、それ等の人々よりも勝れていたであろうに、何等世に輝き残るところなく黙々として忘れられて行きつつ在る。
 繰返して云う。
 現在の日本は維新後の西洋崇拝熱から眼ざめつつ在る。国粋万能を叫ぶ声が津々浦々に満ち満ちて、今まで棄ててかえり見られなかった郷土の産物、芸術が、国粋の至宝として再認識され、珍重され初めつつ在る。能楽の如きも老人の閑技、骨董芸術として、忘却されていたものが、明治の末年頃から西洋人の注意を惹《ひ》いて以来、日本の識者間に再認識され、騒がれ初めた。そうして現在の民族芸術尊重熱の炎波に乗って唯一無上の国粋芸術として一般の知識階級、学生層に洪水の如く普及しつつある。
 梅津只圓翁はこの時代を見ずして世を去った。しかも維新後、能楽没落のただ中に黙々として斯道《しどう》の研鑽《けんさん》を怠らなかった。東都の能楽師等が時勢の非なるを覚《さと》って、装束を売り、能面を売って手内職や薄給取りに転向している際にも翁は頑として能楽の守護神の如く子弟を鞭撻し続けていた。
 明治の後年になって東都の能楽師がボツボツ喰えるようになって互いに門戸を張り合って来た時、翁の如き一代の巨匠が中央に乗出していたならば、当時の能界の巨星と相並んで声威を天下に張る事が容易であったかも知れぬ。しかも翁はそのような栄達、名聞《みょうもん》を求めず。一意、旧藩主の恩顧と、永年奉仕して来た福岡市内各社の祭事能に関する責務を忘れず、一身を奉じつくして世を終った。
 風雲に際会して一時の功名を遂げるのは比較的容易であると聞く。権を負い、才力を恃《たの》んで天下に呼号するのは英雄豪傑の会心事でなければならぬ。
 しかし純忠の志を地下に竭《つく》し、純誠の情涙を塵芥裡に埋めて、軽棄されたる国粋の芸道に精進し、無用の努力として世人に忘却されつつ、満足して世を去るという事は普通の日本人……世間並の国粋流者の能《よ》くするところでない。
 旧藩以来福岡市内|薬院《やくいん》に居住し、医業を以て聞こえている前医師会理事故権藤寿三郎氏(現病院長健児氏令兄)は梅津只圓翁の係医として翁の臨終まで診察した人であるが、嘗《かつ》て筆者にかく語った。
「私は謡曲とか能楽とかいうものは些《すこ》しも解からず、又面白いとも思わない。しかし医師として梅津只圓翁の高齢と元気とには全く敬服していた。私は翁を健康な高齢者の標本として研究していたので、爾後《じご》幾多の老人の診察に際して非常な参考となった事を感謝している。晩年といっても翁が九十二歳、明治四十一年から三年間病臥して居られたが、それといっても決して病気ではない。ただ樹木の枯れるように手足が不叶いになられただけで、健康には申分なく、そのまま枯れ果てて三年後の夏の何日であったかに、眠るが如く世を去られたまでの事であった。
 その亡くなられた当日の朝の事であった。
 門下の中でも一番の故老らしい品のいい二人の老人が、無論お名前なぞ忘れてしまったが、わざわざ私に面会に来られて翁の容態を色々尋ねられた後、実は老先生が亡くなられる前に聞いておきたい謡曲の秘事が唯一つ在る。それをお尋ねせずに老先生に亡くなられては甚だ残念であるが、その事を老先生にお尋ねする事を主治医の貴下にお許しを受けに伺った次第ですが……というナカナカ叮重《ていちょう》なお話であった。
 これには私も当惑した。むろん梅津先生は御重態どころではない。その前日の急変以来眼も、耳も、意識も全く混濁しているとしか思えないので、単に呼吸して居られる。脈が微《かすか》に手に触れるというだけの御容態である。御家族の方や私が御気分をお尋ねしても御返事をなさらない事が数日に及んでいる折柄で、面会などは主治医として当然、お断り申上げなければならない場合であったが、しかし又一方から考えてみると、その時は、その面会謝絶すらも無用と思わるる絶望状態で、何を申上げてもお耳に入る筈はない。御臨終の妨げになる心配はないと考えたから、折角《せっかく》の御希望をお止めするのは却《かえ》って心ない業ではあるまいかと気が付いて……それならば折角のお話ですから私が立会いの上でお尋ね下さい……と御返辞した。
 二人の老人は非常に喜ばれた。即刻、私と同伴して、程近い中庄《なかしょう》の老先生の枕頭に来られて、出来るだけ大きな声で、私にはチンプンカンプンわからない謡曲の秘伝らしい事を繰返し繰返し質問されたが、私の推察通り意識不明の御容態の事とて、老先生が御返事をなさる筈がない。短い息の下にスヤスヤと眠って居られるばかりである。
 二人の老人は暗然として顔を見合わせた。仕方なしに今度は御臨終に近い老先生の枕元で本を開いて、二人の御老人が同吟に謡い出した。
 それが何の曲であったか、もとより私の記憶に残っていよう筈もないが、たしか開かれた一枚の真中あたりまで謡って来られたと思ううちに老先生の呼吸が少し静かになって来た。そうして間もなく私が執っていた触れるか触れないか程度の脈搏が見る見るハッキリとなり、突然に喘鳴《ぜんめい》が聞こえ初めたと思うと、老先生は如何にも立腹されたらしく、仰臥して眼を閉じたまま眉根を寄せて不快そうに垢《あか》だらけの頭を左右に動かされた。
 二人の老人は真青になって汗を拭き拭き顔を見交わした。そうして二人で二三度同じ処を謡い直されたと思ったが、間もなく左右に振り続けて居られた老先生の頭が安定し、喘鳴がピッタリと止んで『その通りその通り』という風に老先生の頭が枕の上で二三度縦に緩やかに動いたと思うと、又|旧《もと》の通りの短い呼吸の裡にスヤスヤと眠って行かれた。家内の御方が慌てて何か云うて居られたがモウ何の御返事もなかった。
 二人の老人はそのお枕元の畳に両手を突いて暫く涙に暮れていたが、私が『モウ宜しいですか』と念を押すと、『お蔭で』と非常に感謝されたので、そのまま御内の方に御注意を申上げて退出した。
 老先生はそのままその夜の中に御他界になったが、その時の医師としての私の驚きは非常なものがあった。
 あのような深い昏睡に陥って居られる、申さば断末魔の老先生が御門弟の謡の間違いを聞きわけられる。これを是正されるという事は如何に芸術の力とはいえ医学上あり得べき事でない。一つの途方もない奇蹟、もしくは驚異的な出来事である。してみると人間の精神の力は肉体が死んでも生き残るものかも知れない……とつくづく思わせられた事であった」
 この話を筆者と一緒に聞いて居られた権藤夫人は現存して居られる。又前医師会理事権藤寿三郎氏が言葉を飾る人でなかった事は周知の事実である。
 筆者は、まだ、これ程の偉大崇高な臨終を見た事も聞いた事もない。翁は九州の土が生んだ最も高徳な人ではなかったろうか。
 その銅像の銘には古賀得四郎氏揮毫の隷書で左の意味の文句が刻んで在る。

       梅津只圓翁

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翁ハ旧黒田藩喜多流ノ能楽師ナリ。明治四十三年九十四歳ヲ以テ歿ス。弱冠ニシテ至芸、切磋一家ヲ成ス。喜多流宗家|六平太《ろっぺいた》氏未ダ壮ナラズ、嘱セラレテ之ヲ輔導ス。屡《しばしば》雲上高貴ニ咫尺《しせき》シ、身ヲ持スルコト謹厳|恬淡《てんたん》ニシテ、芸道ニ精進シテ米塩ヲカヘリミズ。ソノ人ニ接スルヤ温乎玉ノ如ク、子弟ヲ薫陶スルヤ極メテ厳正ニ、老ニ到ツテ懈《おこた》ラズ。福岡地方神社ノ祭能ヲ主宰シ恪勤《かっきん》衆ニ過グ。一藩
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