人士翁ノ名ヲ聞キテ襟ヲ正サザルナシ。歿後二十五年、旧門下追慕|措《お》カズ、大方ノ喜捨ヲ請フテ之ヲ建ツ。
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 隠れたる偉人、梅津只圓翁の略歴は下記の通りである。勿論僅かに残っている翁の手記等によって、微力な筆者が調査、推測想像したものだから遺漏敗欠が少くない事と思うが、そのような点は引続き大方の御指摘是正を蒙って、老師の真伝記を完成する事が出来たならば、筆者の幸福これに過ぐるものはない。ただ粗漏|蕪雑《ぶざつ》のまま大体を取纏めて公表を急がなければならなくなった筆者の苦衷を御諒恕の程幾重にも伏願する次第である。

 梅津家は代々非常な遠祖から歌舞音曲の家柄であったという。山城国葛野郡に現在梅津という地名が在って、梅津家は代々ここに定住し、そうした家業を司っていたらしい。但し如何なる種類の歌舞音曲であったかは的確に判明しないが、後に同家の家系の中から梅若九郎右衛門なぞいう名家を分派したところを見ると、相当の繁栄を遂げていた事が推測される。梅若というのは梅津の一字を残し、若の一字を附け加えて芸名とし、旧来の梅津家の伝統と区別して華やかに披露をしたところから起った家名らしく、今の梅若家の祖先であるという。なお詳細は不明であるけれども、平安朝時代にその梅津家の一人が九州筑後高良山玉垂神社所属の田楽法師《でんがくほうし》として下向し、久留米市の南方一里ばかりの所に現存する朝日村を所領として家業を伝えた。(坂元雪鳥、山崎楽堂両氏談)今でもその朝日村に梅津家の墓石が現存しているという。
 もちろんその当初には、まだ能楽なるものが発生していなかったのだから、いずれ田楽、もしくは里神楽《さとかぐら》類似の神事舞曲の司となっていたもので、後に能楽が流行して来るにつれて、自から転向して家業とし、祭事能を司って来たものであろうと考えられる。その喜多流を酌《く》んだ由来も、もとより詳《つまびらか》でないが、元亀天正の乱世に、肥前に似我という忠勇無双の士が居た。太鼓に堪能で喜多流の大家であったというような話を筆者が幼少の時代に祖父から聞き伝えているところから考えると、喜多流なる流派の存在は現在伝うるところよりもズット古く戦国時代から既に存在していて、九州地方にも流行していた。従って梅津家も、その流を酌んでいたものではないかとも考えられるようであるが、しかし、これは単なる臆測類似の聞き伝えで、或《あるい》は筆者の聞き誤りか記憶違いかも知れない。況《いわ》んや宗家の記録と甚しい時代の相違があり、引例考証らしいものすら絶無であるから、ただ何かの参考としてここに記載しておくに止める。
 それから物変り星移って徳川時代に入り、筑前福岡が黒田の城下となった時、その梅津の本家の方は博多に在住してその頃の所謂《いわゆる》町役者となり、山笠に名高い博多の氏神、櫛田《くしだ》神社の神事能を受持っていた。現梅津正利師範は故梅津正保師範と共にこの家系の末に当っているのであるが、同時にその分家である今一軒の梅津氏は観世流の藤林家と相並んで藩公黒田家のお抱えとなり、邸宅と舞台を薬院|中庄《なかしょう》に賜わり士分に列せられていた。
 その後裔《こうえい》に当る黒田藩士梅津源蔵正武氏(正利氏令息で隠居して一朗といった)と、その妻判女(児玉氏)との間に一女二男が生まれた。
 兄は文化十四年丁丑四月十七日出生、梅津源蔵利春という。初め政之進、又は栄と名のっていたが、藩主長溥公の御沙汰によって改名したものである。それが後に隠居して只圓と号した。すなわち我が只圓翁であった。
 利春(只圓翁)の妻は黒田家播磨殿家士、梅津羽左衛門の娘で弘化三年に縁組したが、元治元年十一月に三十五歳で死別したので、明治三年七月、後妻として野中勝良氏の姉イト子と縁組した。尚、参考のため翁の姻戚関係を左に掲げておく。(翁生前の手記に拠る)
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◇姉セキ 弘化四年未六月一日生る。明治五年佐々木啓次郎に嫁す。
◇嫡子 梅津栄重利、嘉永三年戌二月十六日生る。明治四年未十月家督。明治十二年一月十八日卒す。無涯と号す。
◇二女マサ 嘉永五年子十一月六日生る。明治二年牟田口重蔵に嫁す。同二十五年八月十日卒す。
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[#地から1字上げ](以上先夫人の所生)
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◇三女千代 明治四年未九月晦日生る。明治二十四年野中到に嫁す。
◇養子 梅津利彦。牟田口重蔵三男。明治十五年十月二十五日生る。明治二十四年六月に養子す。明治三十年四月改名。明治三十七年十二月事故有て離別す。
◇養子 梅津健介。佐々木啓次郎次男。明治十一年六月十六日生る。同三十八年養子す。同年十月家督譲る。
◇弟 梅津九郎助。荒巻軍平養子となり伊右衛門という。後軍治と改めその後行度と改む。明治九年三月二十日卒す。行栄という。行年五十四歳。
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 元来梅津家は前記の通り、黒田藩お抱えの能楽師の家柄として喜多流を相伝していたので、利春は幼少の頃から部屋住のまま藩主斉清公の前に出て御囃子や仕舞《しまい》を度々相勤めて御感に入り、いつも御褒美を頂戴していた。
 続いて天保三年の春、師家へ入門の手続をして直ぐに秘曲「翁《おきな》」の相伝を受けた。時に利春十六歳と伝えられているが、これはその時代の事であるから直接上京して入門した訳ではないようである。大藩黒田侯の御取済によって、地方の神社祭事に是非とも奉納しなければならぬ神曲「翁」の允可《いんか》を受けたものであろう。ただ弱冠十六歳で、能楽師家担当の重大責務ともいうべき神曲「翁」の相伝を受けたという一事によって、その当時の黒田藩内の能楽界に於ける利春の声望と実力の如何に隆々たるものであったかが想像される次第である。
 それから利春は十二年後の弘化元年の春(二十八歳)と嘉永元年春(三十二歳)と両度上京した。喜多十三世|能静《のうせい》氏に就いて能楽を修業し、重習能《おもならいのう》、小習《こならい》等を相伝したという。
 次の話は翁のその頃の苦心をあらわすもので、或は逸話の部類に入れるべき事柄かも知れぬ。又出所等も詳《つまびら》かでないが、筆者が何かの大衆雑誌で読んだ事である。
 翁が能静氏の門下で修業中、名曲「融《とおる》」の中入《なかいり》後、老人の汐汲《しおくみ》の一段で「東からげの潮衣――オ」という引節《ひきふし》の中で汐を汲み上げる呼吸がどうしても出来なかった。そこで能静氏から小言を云われっ放しのまま残念に思って帰郷の途中、須磨の海岸で一休みしながら同地の名物の汐汲みを眺めていたが、打ち寄せる波が長く尾を引いて、又引き返して逆巻こうとするその一刹那をガブリと担い桶に汲み込んで、そのまま波に追われながら後退《あとしざ》りして来る海士《あま》の呼吸を見てやっと能静氏の教うる「汐汲み」の呼吸がわかった。同時に「潮衣――オ――」という引節に含まれた波打際の妙趣がわかったので、感激しながら帰途に就いたという。
 前記の通り事の真偽は知らないが、斯様《かよう》な話が世に伝えられているところを見ると、この当時の翁の苦心が多少に拘らず世に伝えられていた証左としてここに附記しておく。
 これより前、弘化三年三月、父正武氏の退隠により利春氏が家督を相続した。時に利春三十歳。翌弘化四年、三十一歳の時に父を喪《うしな》った。
 父を喪った後の利春は藩内の能楽に関する重責を一身に負い、その晩年に窺われた非凡の気魄、必死の丹精と同様……もしくはそれ以上の精彩を凝らして斯道の研鑽に努力した事が察しられる。その手記には「その後、御能、囃子等度々相勤むる」と極めて謙遜した簡短な文辞が挟んで在るだけであるが……。

 嘉永五年の三月に利春は、中庄の私宅舞台(福岡市薬院)に於て相伝の神曲「翁」の披露能を催した。相伝後正に二十年目に初めて披露をした訳である。翁一流の慎重な謙遜振りがこの時にも現われている。
 これは晩年の翁の気象から推察して、相伝後、自分が満足するまで練りに練り、稽古に稽古を重ねた結果と思われるが、更に今一歩深く翁の性格から推し考えてみると、翁は決して自分一人を鞭撻《べんたつ》していたのではあるまいと思われる。
 能楽は元来綜合的な舞台芸術である。だから仕手方《シテかた》を本位とする地謡《じうたい》、囃子方《はやしかた》、狂言等に到るまで、同曲の荘厳と緊張味とを遺憾なく発揮し得なければ、如何に達者な仕手方(翁自身)と雖《いえど》も十分の舞台効果を挙げる事が出来ない筈である。
 しかも地方|僻遠《へきえん》の地で「翁」ほどの秘曲を理解し、これを演出し得る程に真剣な囃子方、狂言方等は容易に得られない関係から、当地方の能楽界の技倆が、その程度にまで向上する時機を待っていたものか、もしくはその程度に達するまで、翁が挺身して一同を鞭撻し続けて来たものではあるまいかという事実が、前述の理由から想像される。
 そうして万一そうとすれば、只圓翁のこの披露は、当節の披露の如き手軽い意味のものでない。正に福岡地方の能楽界に一紀元を画した重大事件であったろうと思われる。同時に翁のそこまでの苦心とこれに対する一般人士の翹望《ぎょうぼう》は非常なものがあったに違いない事が想像されるので、その能が両日に亘り、黒田藩のお次(第二種)装束の拝借を差許される程の大がかりのものであった事実を見ても、さもこそと首肯される次第である。
 いずれにしてもこの「翁」披露能は一躍只圓翁をして福岡地方の能楽界の重鎮たらしめる程の大成功を収めたらしい。能後、翁は藩公より藩の御装束預かりを仰付《おおせつけ》られた。これは藩の能楽家柄として最高無上の名誉であると同時に、藩内の各流各種の催能はすべて翁の支配下に属しなければならぬという大責任が、それから後翁の双肩に落下した訳である。
 かくしてこの神曲「翁」披露能後に認められた翁の人格と芸能の卓抜さがその後引続いて如何に名誉ある活躍を示したか……そうしてその間に於ける翁の精進が如何に不退転なもので在ったかは、後掲の記録を一見しただけでも一目瞭然であろう。
 不幸にしてその頃は封建時代で、その時代特有の窮屈な規範に縛られ易い能楽の事とて、翁の声価も極めて小範囲に限って認められていた憾《うら》みがある。前にも述べた通り万一これが、ほかの大衆的な芸術で、封建の障壁が取払われている現代であったならば、芸術界に於ける翁の威望はどの範囲にまで及んでいたであろうか。
 嘉永七年(安政元年利春三十八歳)三月。福岡市天神町水鏡天満宮二百五十年御神祭につき、表舞台(今の城内練兵場、旧射的場附近御下屋敷所在)で三日とも翁附の大能を拝命した。殊に藩公の御所望で、物習能《ものならいのう》(普通の能ではない、達人でなければ舞えない秘伝の曲目)を仰付られた。右つとめ終って後、御目録を頂戴し荒巻軍治氏(翁の令弟)に祝言を仰付られた。
 又文久元年九月(利春四十五歳)、宰相公(長知《ながとも》)御昇進御祝につき、表舞台で同二十八日より三日共翁附の御能を仰付られた。
 同じく文久元年十月十五日に藩公から翁に御用召があったので、何事かと思って御館へ罷出《まかりで》たところ御月番家老黒田大和殿から御褒美があった。すなわち「利春事、家業の心掛よろしく、別して芸道丈夫である。のみならず平日の心得方よろしく暮し向万事質素で、門弟の引立方等が深切に行届いている段が藩公の御耳に達し、奇特に思召《おぼしめ》され、御目録の通り下し賜わり、弥々《いよいよ》出精せよという有難きお言葉である」という御沙汰であった。且つ、「格別の御詮議を以て御納戸組《おなんどぐみ》馬廻《うままわり》格に加入仰付られ候事」というので無上の面目を施して退出した。
 右の御褒美の中に「平日の心掛|宜敷《よろしく》」「暮し向万事質素」「門弟引立方深切」云々という事実は筆者等が翁の晩年に於ても親しく実見したところで、後に掲ぐる翁の逸話を一読されたならば思い半《なかば》に過ぐるであろ
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