ていたかを容易に首肯されるであろう。その当時の能楽は全く長押《なげし》の槍《やり》、長刀《なぎなた》以上に無用化してしまって、誰一人として顧みる者がなかったと云っても決して誇張ではないであろう。
事実、維新直後から能楽各流の家元は衰微の極に達し、こんなものは将来廃絶されるにきまっているというので、古物商は一寸四方何両という装束を焼いて灰にして、その灰の中から水銀法によって金分を採る。能面は刀の鍔《つば》と一緒に捨値で西洋人に買われて、西洋の応接室の壁の装飾に塗込まれるという言語道断さで、能楽はこの時に一度滅亡したと云っても過言でなかった。
能評家の第一人者坂元雪鳥氏の記録するところを見ても思い半《なかば》に過ぐるものがある。
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専門の技芸の外には、世間に役立つ程の学才智能があるのではなし、銭勘定さえ知らない程に世事に疎《うと》かった能役者は幕府の禄こそ多くなかったが、諸大名からの夥しい扶持を得て前記の如き贅沢な安逸に耽っているのであるから、すべての禄に離れて、自活を余儀なくされた能役者の困惑は言語に絶するものであった。中には蓄財のあった家もあるが、静にそれを守り遂げる事が出来ないで、馴れない商売で損亡を招く者が多く、又蓄える事を知らなかった人々は、急転直下して極端な貧窮状態に陥る外なかったのである。
その頃の事を目の当り見聞した人も漸く少くなったが、その窮状を語る話は数々あった。何とも転向の出来ない者は手内職をするとか、小商売を開くというのであったが、内職といっても団扇《うちわ》を貼るとか楊枝《ようじ》を削るとかいう程度で、それで一家を支えるなどは思いも寄らない事であった。商売といっても家財を店先に並べて古道具屋を出す位で、それも一般家庭に役立つ物は少く、已《や》むを得ず二束三文に売り飛ばすと、あとは商品を仕入れる余裕がないから、屑屋同様になって店を仕舞うという有様であった。明治時代の大家と呼ばれた人の中に夜廻りをやって見たり、植木屋の手伝いをして見たりした人もある。芝居役者と共同の興行をやって見て、遂にその方へ這入った人もある。
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という実に今から考えても夢のような惨澹たる時代であった。
こうした傾向の中心たる東京の真只中で窮乏に安んじながら能楽を捨てなかった翁の恩師能静氏の如きは実に鶏群中の一鶴と称すべきであったろう。
もとより生一本の能楽気質の翁が、こうした能静氏の風格を稟《う》け継いだ事は云う迄もない。
翁は九州に帰って後、そうした惨澹たる世相の中に毅然として能楽の研鑽と子弟の薫育を廃しなかった。野中到氏(翁の愛娘千代子さんの夫君で、後に富士山頂に測候所を建て有名になった人)と、翁の縁家荒巻家からの扶助によって衣食していたとはいえ全く米塩をかえりみず。謝礼の多寡《たか》を問わず献身的に斯道の宣揚のために精進した。
七八つの子供から六十歳以上の老人に到るまで苟《いやしく》も翁の門を潜るものは一日も休む事なく心血を傾けて指導した。その教授法の厳格にして周到な事、格を守って寸毫も忽《ゆるがせ》にしなかった事、今思っても襟を正さざるを得ないものがある。(後出逸話参照)
さもしい話ではあるが、そうした熱心な教育を受けた弟子が、謝礼として翁に捧ぐるものは盆と節季に砂糖一斤、干鰒《ほしふく》一把程度の品物であったが、それでも翁は一々額に高く押戴いて、「はああ……これはこれは……御念の入りまして……」
と眼をしばたたきつつ頭を下げたものであった。無慾篤実の人でなければ出来る事でない。
そればかりでない。
翁は市内|櫛田《くしだ》神社(素戔男尊《すさのおのみこと》、奇稲田姫《くしなだひめ》を祭る)、光雲《てるも》神社(藩祖両公を祀る)、その他の神事能を、衷心から吾事として主宰し、囃子方、狂言方、その他の稽古に到るまで一切を指導準備し、病を押し、老衰を意とせず斎戒沐浴し、衣服を改めて、真に武士の戦場に出づる意気組を以て当日に臨んだ。これは普通人ならば正に酔狂の沙汰と見られるところであったろうが、これを本分と覚悟している翁の態度は誰一人として怪しむ者もなく、当然の事として見慣れていたくらい真剣に恪勤《かっきん》したものであった。
これも逸話に属する話かも知れぬが、当時の出演者はシテ方、ワキ方は勿論、囃子方といわず狂言方といわず、見物人の批評を恐るる者は一人も居なかった。ただ楽屋に控えている翁の耳と眼ばかりを恐れて戦々兢々《せんせんきょうきょう》として一番一曲をつとめ終り、翁の前に礼拝してタッタ一言「おお御苦労……」の挨拶を聞くまでは、殆んど生きた心地もなかったと云っても甚だしい誇張ではなかった。その当時十二三か四五程度の子供であった筆者でさえも大人の真似をして翁の顔
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