ではなかったであろう。廃《すた》れて行く能楽の真髄、別して自分の窮めた喜多流の奥儀を、せめて九州の一角にでも残しておきたいという一念から翁を見込んで相伝したものに違いなかったであろうが、それでも徳義に篤い只圓翁としては、そのままに過ごす事が出来なかったのであろう。しかも僅か十五円五十銭ぐらいの薄給では到底師恩相当の礼をつくす事が出来ないので非常に苦悩したらしい。
 しかし、さりとて他所から借金して融通するような器用な真似の出来る翁ではないので、とうとう思案に詰まった上、黒田家|奥頭取《おくとうどり》の処へ翁自身に出頭して実情をありのままに申述べ、金子《きんす》借用方をお願いしたところ、何をいうにもお気に入りの翁が、一生に一度の切なる御願いというので殿様も、その篤実な志に御感心なすったのであろう。御内々で金十円也を謝礼用として賜わり、ほかに別段の思召として金子その他を頂戴したので翁は感泣して退出した。大喜びで本懐の礼を尽したという。翁が如何に師匠能静氏から見込まれていたか。同時に又藩公から如何に知遇されておったかがこの事によっても十分窺われる。
 然るに同年五月二十四日、予《かね》てから不快であった能静氏が、重態となったので、態々《わざわざ》翁を呼寄せて書置を与えたという。
 その書置の内容が何であったかは知る由もないが、「師恩の広大なることを忘却仕間敷」と翁の手記に在る。尚引続いた翁の手記に、
「明治四年辛未十月|下拙《げせつ》(翁)退隠。栄家督。其後栄病死す。只圓のみ相続す」
 と在る。この前後数年の間に翁は二つの大きな悲痛事に遭遇したわけである。
 明治十一年春(翁六十二歳)、長知公御下県になり、福岡市内薬院、林毛《りんもう》、黒田一美殿下屋敷(今の原町林毛橋附近南側)というのに滞在された。御滞在中幾度となく翁を召されて囃子、半能等を仰付られた。
 その後、長知公が市内浜町別邸(現在)に住まわれるようになってからも、御装束能、御囃子等度々の御催しがあり御反物、金子等を頂戴した。
 明治十三年三月三十日、翁六十四歳の時に又も上京したが、この時翁は在福の門下から鈴木六郎、河原田平助両人を同行した。多分藩公、御機嫌伺いのためと師匠の墓参りのためであったろう。
 この時の在京中藩公の御前は勿論、喜多流の能楽堪能(皆伝)と聞こえた藤堂伯邸へも度々召出されて御能、お囃子等を仰付られた。
 その時長知公の御所望で「石橋」をつとめた事があるという。舞台は判然しないが、その「石橋」で翁の相手をした人々は宝生新朔、清水然知、清水半次郎、長知公、一噌要三郎と記録されている。いずれもが、その時の脇師、囃子方中の名誉の人々であったことは説明する迄もない。
 かくて無上の面目を施した翁は四月六日東京出立、同二十七日無事帰県したが、この時の上京を前後として翁の芸風が漸く円熟期に入ったものではないかと思われる理由がある。勿論翁の斯道に対する研鑽《けんさん》と、不退転の猛練習とは晩年に到っても懈《おこた》る事がなかった筈であるが、しかしこの以後の修養は所謂《いわゆる》悟り後の聖胎長養時代で、この前の六十余年は翁の修業時代と思うのが適当のようである。
 すなわち翁はこの前後に重き習物の能を陸続《りくぞく》と披露している。
 ▼明治六年(五十七歳)望月
 ▼同 七年(五十八歳)正尊、景清
 ▼同十一年(六十二歳)卒都婆小町
 ▼同十三年(六十四歳)石橋(前記)
 ▼同十四年(六十五歳)赤頭道成寺、定家
 この明治十四年の「定家」披露後は明治二十五年まで(翁六十五歳より七十六歳に到る)格別の事もなかったらしい。何等の記録も残っていないが、しかもこの十年ばかりの間こそ、翁が芸道保存のために最惨澹たる苦楚《くそ》を嘗《な》めた時代で、同時に翁の真面目が最もよく発揮された時代であった。
 明治十四年から同二十五年の間といえば、維新後|滔天《とうてん》の勢を以て日本に流れ込んで来た西洋文化の洪水が急転直下の急潮を渦巻かせている時代であった。人間の魂までも舶来でなければ通用しなくなっていた時代であった。
 人々は吾国《わがくに》固有の美風である神仏の崇拝、父母師友の恩義を忘れて個人主義、唯物主義的な権利義務の思想に走ること行燈《あんどん》とラムプを取換えるが如く、琴、三味線、長唄、浄瑠璃を蹴飛ばしてピアノ、バイオリン、風琴、オルガンを珍重すること傘を洋傘に見換える如くであった。朝野の顕官は鹿鳴館に集まって屈辱ダンスの稽古に夢中になり、洋行帰りの尊敬される事神様の如く、怪しげな洋服、ステッキ、金時計が紳士の資格として紋付袴以上の尊敬と信用を払われた事は無論であった。
 こうした浅ましい時代の勢いを真実に回顧し得る人々は、国粋中の国粋芸術たる能楽がその当時如何に衰微の極に達し
前へ 次へ
全36ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング