》網といって一番網目の小さい網をセッセと自分で繕《つくろ》って、那珂《なか》川の砂洲を渡り歩いたものであった。
 その扮装《いでたち》は古手拭で禿頭に頬冠りをした上から古い小さい竹の子笠を冠り、紺のツギハギ着の尻をからげて古足袋を穿いた跣足で、腰に魚籠《びく》を括《くく》り付けていた。
 その頃の那珂川の水は透明清冽で博多織糸の漂白場《さらしば》であったが、ずっと上流まで博多湾から汐がさして、葦原と白砂の洲が到る処に帯のように続いていた。その水深約一尺以内の処にはハラジロ(沙魚《はぜ》の子ともいい別種ともいう)が一面に敷いたように居るのを翁が目堰網で引っ被せてまわる。
 ハラジロは形が小さいので、獲ったアト始末が面倒なために普通の網打人《あみうち》は相手にしなかったから、いつも沢山に獲れた。その獲れる事と、獲ったアトの面倒さと、喰べる時の風味のよさが翁の楽みとし得意とするところらしかった。
 霜の真白い浅瀬に足を踏張《ふんば》って網を投げている翁の壮者を凌《しの》ぐ腰付を筆者が橋の上から見下して、こちらを向かれたら、お辞儀をしようと思っていると、背後を通りかかった見知らぬ人がよく、
「ああ。まだ只圓先生はお元気そうな」
 と云い云い立佇《たちど》まって眺めたり、そのまま通り過ぎて行ったりした。翁の存在を誇りとして仰いでいた福岡人士の気持ちがよくわかる。
 翁は網打ちに行くといつもまだ日足の高いうちに自宅に帰って、獲れた魚の料理にかかる。
 大きいのは三寸位の本物の沙魚やドンク(ダボハゼの方言)の二三十位から、一寸にも足らぬハラジロの無数を、一々切出小刀で腹を割いて一列に竹串に刺し、行燈型の枠を取付けた白角い七輪のトロ火で焙《あぶ》り乾かして、麦稈《むぎわら》を枕大に束ねて筒切りにしたホテというもの一面に刺して天日に乾かす。乾くと水飴と砂糖と醤油でカラカラに煮上げて、十匹ぐらいずつ食膳に供する。何ともいえない雅味のある小皿ものであった。
 また俎板に残った臓腑は白子、真子を一々串の尖端《さき》で選り分けて塩辛に漬ける。これが又非常に贅沢な風味のあるものらしかった。
 翁自身は勿論、老夫人や女中も総がかりでこの仕末をする。筆者も翁の姪に当る荒巻トシ子嬢と二人で手伝った事があったが、ナカナカ面倒なのでじきに飽きてしまった。
 いよいよ獲物が片付く頃は日が暮てしまって、日に焼けた翁の顔が五分芯のラムプに赤々と光る。
 そこで例の一合足らずの硝子燗瓶が傾いて翁の顔がイヨイヨ海老色に染まる。ニコニコと限りなく嬉しそうにしている翁の前に筆者は頭を下げてお暇《いとま》をする。
「おお。御苦労じゃった。又来なさい」

          ◇

 只圓翁は重い曲を容易に弟子に教えなかったばかりでなく、謡の中の秘伝、口伝はもとより、稽古の時に叱って直した理由なぞは滅多に説明しなかったらしい。後で質問しても、
「インマわかる。稽古が足らん稽古が足らん」
 とか何とか追払われたものらしい。高足の人達が、
「私も老年になりましたから一つ何々のお稽古を……」
 とか何とか云って甘たれかかっても、
「稽古に年齢《とし》はない。年齢は六十でも稽古は孩児《あかご》じゃ」
 なぞと手厳しく弾付《はねつ》けられたという話が時折耳に這入った。又、
「ここのところはどういう心持ちで……」
 なぞと大切な事を尋ねても、
「尋ねて解るものなら教える。尋ねずとも解る位にならねば教えてもわからぬ」
 と面皮を剥《は》いで追っ払ったり、
「心持ちなぞはない。教えた通りに真直《まっすぐ》に謡いなさい。いらざる心配しなさんな」
 なぞと叱っているのを見受けた。

          ◇

 ところで翁の弟子で一番熱心な前記斎田惟成氏はよく翁の網打ちのお供をした。魚籠《びく》を担いで川までお供して行く途中の長い長い田圃道の徒然《つれづれ》なままに翁と雑談をしながら何気なく質問をすると、翁は上機嫌なままに大事な口伝や秘伝を不用意に洩らすことがあった。どうかした時には師匠能静氏から指導された時の有益な苦心談などを述懐まじりで話して行く事もあったらしい。
 これは斎田氏の稽古の秘伝で、後にその心持ちで謡ったり舞ったりして翁から賞められた事が度々あったので、とうとうこの斎田氏の秘伝のお稽古法が露見してしまった。そうして、それから後斎田氏は高弟連中から色々な質問を委託されて翁の網打ちのお伴をしなければならなくなったが、時に依ると翁が意地悪く口を緘して一言も洩らさない事があった。
「昨日は不漁《しけ》じゃった」
 と斎田氏が翌る日、他の弟子連中に云う。知らない者は翁のホテの魚の串を見て……あんなに沢山獲れているのに……と思ったらしいが、何ぞ計らん。斎田氏の不漁《しけ》は秘伝口伝の不漁であった。(林
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