った。勝負事なんか無論であった。
◇
一面に翁はナカナカ器用だったという話もある。翁の門下で木原杢之丞という人が福岡市内荒戸町に住んでいた。余程古い門下であったらしく、翁が舞った「安宅」のお能を見たそうで、「方々は何故に」と富樫に立ちかかって行く翁の顔がトテモ恐ろしかった……とよく人に話していたという。
その木原氏の処へ翁が或る時屏風の張り方を習いに来た。平面の処や角々は翁自身の工夫でどうにか出来たが、蝶番《ちょうつが》いの処がわからないので習いに来たのであったという。
その時に翁は盃二三杯這入る小さな瓢箪《ひょうたん》を腰に結び付けて来ていたが、屏風張の稽古が一通りわかるとその瓢箪を取出して縁側で傾けた。如何にも嬉しそうであったという。(栗野達三郎氏談)
◇
明治二十八年頃知人(門下?)に大山忠平という人が居た。なかなかの親孝行な人で、老母が病臥しているのを慰めるため真宗の『二世安楽和讃』を読んで聞かせる事が毎度であった。
老母は大の真宗信者で且、只圓翁崇拝家であったが、或る時忠平氏に、
「お前の読み方では退屈する。只圓先生に節《ふし》を附けてもろうたらなあ」
と云った。忠平氏は難しい註文とは思ったが、ともかくも翁にこの事を願い出ると、元来涙|脆《もろ》い翁は一も二もなく承諾して、自分で和吟の節を附けて忠平氏に教えてやった。(栗野達三郎氏談)
◇
翁の愛婿、前記野中到氏が富士山頂に日本最初の測候所を立てて越冬した明治二十六年の事、翁は半紙十帖ばかりに自筆の謡曲を書いて与えた。「富士山の絶頂で退屈した時に謡いなさい」というので暗に氏の壮挙を援けたい意味であったろう。その曲目は左の通りであった。
柏崎、三井寺、桜川、弱法師《よろぼうし》、葵上《あおいのうえ》、景清、忠度(囃子)、鵜飼《うかい》、遊行柳(囃子)
野中氏は感激して岳父の希望通りこの一冊を友としつつ富士山頂に一冬を籠居したが、その時に「景清」の「松門謡」に擬した次のような戯《ざ》れ謡《うたい》が出来たといって、古い日記中から筆者に指摘して見せた。
「氷雪堅く閉じて。光陰を送り。天上音信を得ざれば。世の風声を弁《わきま》えず。闇々たる石窟に蠢々《しゅんしゅん》として動き、食満々と与えざれば、身心|※[#「骨+堯」、第4水準2−93−14]骨《きょうこつ》と衰えたり。国のため捨つるこの身は富士の根の富士の根の雪にかばねを埋むとも何か恨みむ今はただ。我父母に背く科《とが》。思えば憂しや我ながら。いずれの時かなだむべきいずれの時かなだむべき」
この戯謡の文句を見ると野中到氏は両親の諫止をも聴かず、富士山頂測候所設立の壮挙を企てたものらしい。そうして只圓翁の凜烈《りんれつ》の気象は暗にこれに賛助した事になるので、翁の愛嬢で絶世の美人といわれた到氏夫人千代子女史が、夫君の後を趁《お》うて雪中を富士山頂に到り夫君と共に越冬し、満天下の男女を後に撞着せしめた事実も、さもこそとうなずかれる節があるやに察せられる。
◇
翁は家のまわりをよく掃除した。畑を作って野菜を仕立てた。
畑は舞台の橋がかり裏の茶の畝と梅と柿とハタン杏《きょう》の間に挟まった数十坪であった。手拭の折ったのを茶人みたように禿頭に載せたり浅い姉さん冠り式にしたりして、草を※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《むし》ったり落葉を掻いたりした。熊手を振りまわして、そんなものを掻き集めて畑の片隅で焼肥を焼いている事もあった。大抵|素跣足《すはだし》で尻をからげていた。
毛虫と蛙はさほどでもなかったが、蛇を見付けると、
「おおおお。喰付くぞ喰付くぞ。打ち殺せ打ち殺せ」
と指をさして逃げまわった。
◇
翁の家の門は槙《まき》の生垣の間に在る、小さな土壁の屋形門であった。只圓翁の筆跡で書いた古い表札が一枚打って在った。敬神家の翁の仕業であろう、傍《かたわら》に大きい、小さい、色々の御守護札が貼り付けてあった。
或る日の事、その門の敷居を跨ぐと、翁が南天の根の草を※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]っていたので、
「先生。きょうは朔造(梅津)さんは病気で稽古を休みますと言伝《ことづて》がありました」
と云ったら、翁は「ウフウフ」と微苦笑して、
「今の若い者は弱いけに詰まらん」
と云った。その時の朔造氏は六十近かったと思う。
この話を帰ってから中風にかかっていた祖父灌園に話したら、泣き中風の祖父は叶わぬ口で、
「先生はイツモ御元気じゃのう。ありがたい事じゃ」
と云ってメソメソ泣き出した。
◇
翁はよく網打ちに行った。それも目堰《めせき
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