が得も云われず神々しかった。
 光雲《てるも》神社の祭能の時は拝領の藤巴の紋の付いた、鉄色の紋付に、これも拝領物らしい、茶筋の派手な袴を穿いている事もあった。その時の襟は茶か水色であったように思う。老夫人が能の前日、広袖の襦袢に火のしをかけて襟を附け換えて御座った。

          ◇

 稽古を離れると翁は実になつかしい好々爺であった。地獄の鬼から急に極楽の仏様に変化するのが子供心に不思議で仕様がなかった。たとえば八十八賀の時、能のアトで、
「元気は元気じゃが、倅の方が先にお浄土参りしてしもうた。クニャクニャになって詰まらん」
 と云って門弟連中を絶倒させた。それから赤い頭巾に赤い緞子《どんす》(であったと思う)のチャンチャンコを引っかけて、鳩の杖を突いて、舞台の宴会場から帰りしなに、
「乳の呑みたい。乳のもう乳のもう」
 と七十歳近い老夫人に戯れたりした。

          ◇

「さあ飴を食うぞ」
 と翁が云うと老夫人が、大きな茶碗に水を入れたのを翁の前に捧げる。翁はそれに上下の義歯《いれば》を入れてから水飴やブッキリ飴を口に抓《つま》み込んでモグモグやる。長い翁の顔が小田原提灯を畳んだようになるのを小謡組の少年連が不思議そうに見上げていると、
「フムフム。可笑《おか》しいのう」
 と云って翁自身も笑った。
 しかしその飴を分けてくれた事は一度もなかった。喰い余りを旧《もと》の通り叮嚀に竹の皮に包んで老夫人に渡すと、茶碗の中の義歯《いれば》を静かに頬張って、以前の厳格な顔に還った。弟子の方を向いて張扇を構えた。
「モグモグ。さあ謡いなさい」

          ◇

 夕方になると翁は一合入の透明な硝子《ガラス》燗瓶に酒を四分目ばかり入れて、猫板の附いた火鉢の上に載せるのをよく見受けた。前記喜多六平太氏の談によると翁は七五三に酒を飲んだというが、これは晩の七の分量に相当する分であったろう。
 翁の嗜好は昔から淡白で、油濃いものが嫌いと老夫人がよく他人に吹聴して居られた。
 筆者も稽古が遅くなった時、二三度夕食のお相伴をしたことがあるが、遠慮のないところ無類の肉類好きの祖父の影響を受けた自宅《うち》の夕食よりも遥かに粗末な、子供心に有難迷惑なものであった。
 そのうちに翁は真赤になった顔を巨大な皺だらけの平手で撫でまわして、「モウ飯」と云った。燗瓶には必ず盃一杯分ばかり残していた。

          ◇

 翁から直筆の短冊を貰った人は随分多いであろうと思う。筆者も七八枚持っていたが、人々に所望されて現在巻頭の二枚しか残っていない。[#巻頭に梅津只圓翁の写真と合わせて3枚の写真あり]
 筆跡は巻頭に掲ぐる通り、二川様に、お家様、定家様、唐様等を加味したらしい雅順なものである。舞台上の翁の雄渾豪壮な風格はミジンも認められないが、恐らく翁の本性をあらわしたものであろう。歌意は歌詞と共に、能楽の気品情操を一歩も出でない古風なもので月並と云えば、それまでであるが、翁はそれを短冊に自筆して人に与えるのがなかなかの楽みであったらしい。気が向くと弟子の帰りを待たしておいて悠々と墨を磨りながら一二枚宛書いて与えた。
 因《ちなみ》に翁の和歌は誰かに師事したものには相違なかったが、その師が誰であったかは遺憾ながら詳《つまびらか》でない。宇佐元緒、大熊浅次郎両氏の談によると有名な大隈言道氏は、翁の存命中、翁の住家に近い薬院今泉に住んでいたから、翁も師事していたかも知れない。その後、言道氏の旧宅に小金丸金生氏が住んでいて、この人に師事していたことはたしかであったという。なおこの他に末永茂世氏が春吉に住んでいたというが、この人に学んだかどうかは詳でない。
 福岡の人林大寿氏は奇特の人で、只圓翁の自筆の短冊数十葉を蒐集し、同翁の門下生に分与しようとされたものが現在故あって一纏めにして古賀得四郎氏の手許に預けられている。古賀氏の尽力で、表装されて只圓翁肉筆の歌集として世に残る筈である。翁の歌風を知るには誠に便宜と思うからその和歌を左に掲げておく。
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    行路荻               (八十七歳時代)
夕附日荻のはこしにかたむきて
      ふく風さむしのべのかよひ路
    帰雁
桜さくおぼろ月夜にかりがねの
      かへるとこよやいかにのとけき
    河暮春               (八十八歳時代)
ちる花もはるもながれてゆく河に
      なにをかへるのひとりなくらん
    河暮春
大井河花のわかれをしとふまに
      はるは流れて暮にけるかな
    雉
春雨のふりてはれぬるやま畑の
      すゝしろかくれ雉子なくなり
    寒松風
枯はてしこすへはしらぬ夜あらしを
  
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