」を舞ったが、この時の「景清」は聊《いささ》か可笑《おか》しかったという噂が残っているが、どうであったろうか。
「烏頭《うとう》」(シテ桐山氏)の仕舞のお稽古の時に、翁は自身に桐山氏のバラバラの扇を奪って「紅葉の橋」の型をやって見せているのを舞台の外から覗いていたが、その遠くをジイッと見ている翁の眼の光りの美しく澄んでいたこと。平生の翁には一度も見た事のない処女のような眼の光りであった。

          ◇

 扇でも張扇でも殆んど力を入れないで持っていたらしく、よく取落した。
 その癖弟子がそんな事をすると非道く叱った。弟子連中は悉《ことごと》く不満であったらしい。
 夏なぞは弟子に型を演って見せる時素足のままであったが、それでも弟子連中よりもズットスラスラと動いた。足拍子でも徹底した音がした。
 平生は悪い方の左足を内蟇《うちがま》にしてヨタヨタと歩いていたが、舞台に立つとチャンと外蟇になって運んだ。
 型の方は上述の通り誠に印象が薄いが、これに反して謡の方はハッキリと記憶に残っている。謡本を前にして眼を閉じると、翁のその曲の謡声《うたいごえ》が耳に聞こえるように思う。ところが自分が謡出してみると、思いもかけぬキイキイ声が出るので悲観する次第である。
 何よりも先に翁の謡は舞いぶりとソックリの直線的な大きな声であった。むろん割鐘《われがね》式ではない。錆の深い、丸い、朗かな、何の苦もない調子であった。
 梅津朔造氏の調子は凜々《りんりん》と冴える、仮名扱いの綺麗な、派手なものであった。
 山本毎氏のは咽喉を開放した、九州地方一流の発音のハッキリし過ぎた、間拍子のキチンとしたもので、いつも地頭を承っていた。
 桐山孫次郎氏のは底張りの柔かな含み声であった。一番穏当な謡と翁門下で云われていた。
 又斎田氏のは凝った、響の強いイキミ声で、謡っている顔付きが能面のように恐ろしかった。
 梅津利彦氏のは声が全く潰れた張りばっかりの一本調子で、どうかすると翁の声と聞き誤られた。
 いずれも翁の謡振りの或る一部分を伝えたものであったらしいが、それ等の謡い盛りの一同の地謡の中に高齢の只圓翁が一人座り込むと、ほかの声は何の苦もなく翁の楽々とした調子の中に消え込んで行った。
 吉本董三氏か大野仁平氏であったと思う。
「先生の傍に座ると、イクラ気張っても紡績会社の横で木綿車を引いているような気持ちになる」
 と云って皆を笑わせていたが、全く子供ながらも、そんな感じを受けた。ツクヅク翁の紡績会社振りに驚嘆させられていた。
 喜多六平太氏は右に就いて筆者に斯《か》く語った。
「ナアニ。声量の問題じゃない。只圓の張りが素晴らしく立派だったからですよ。全く鍛練の結果ああなったのですね。ですから只圓が死ぬと、皆が皆彼の張りの真似をして、間拍子も何も構わないで、ただ死物狂いに張上げるのです。これが只圓先生の遺風だ。ほんとうの喜多流だってんで、二人集まると怒鳴りくらが初まる。お能の時など吾も吾もと張上げて、地頭の謡を我流でマゼ返すので百姓一揆みたいな地謡になっちまう。その無鉄砲な我武者羅《がむしゃら》なところが喜多流だと思って喜んでいるのだから困りものですよ」
 又、梅津利彦氏(現牟田口利彦氏)は翁の型についてこう語った。
「二十歳ぐらいまではただ鍛われるばっかりで、何が何やら盲目《めくら》滅法でしたがそのうちにダンダン出来のよし悪しがわかって来て、腹の中で批評的に他人の能を見るようになりました。只圓の力量もだんだんわかって来るように思いましたが、同じ力と申しましても、只圓は何の苦もなく遣っているようですから、そのつもりで真似をしてみるとすぐに叱られる。なかなかその通りに出来ないし、第一お能らしくない事を自分でも感ずる。只圓の通りに遣るのにはそれこそ死物狂いの気合を入れてまだ遠く及ばない事がわかって、その底知れぬ謹厳な芸力にヘトヘトになるまで降参させられ襟を正させられたものでした」

          ◇

 牟田口利彦氏の話によると、翁は平生極めて気の弱い、涙もろい性分で、家庭百般の事について角立った口の利き方なんか滅多にしなかったが、それでも能の二三月前になると何となく眼の光りが冴えて来て、口の利き方が厳重になった。大抵の事は大まかに見逃していたものが、能前の昂奮期に入ると、「それはいかん」と云う口の下から自身で立上って始末したという。
 こうして月並能であれ祭事能であれ、催能が近付いて来ると翁の態度が、何となく目に立って昂奮して来るのであった。能の当日になると、夏ならば生|帷子《かたびら》の漆紋(加賀梅鉢)に茶と黄色の細かい縦縞、もしくは鉄色無地の紬《つむぎ》の仕舞袴。冬は郡山(灰色の絹紬)に同じ袴を穿いていた。皺だらけの咽喉《のど》の下の白襟
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