悽愴たる涙が、滂沱《ぼうだ》として止《とど》まるところを知らなかったのだ。……


 ……ドウダイ……これが吾輩の首無し事件の真相だ。君等の耳には最《もう》、トックの昔に這入っている事と思っていたんだが……秘密にすべく余りに事件が大き過ぎるからね。
 ウンウンその通りその通り。朝鮮の内部で喰い止めて内地へ伝わらないように必死的の運動をしたものに相違ないね。司法官連中にも弱い尻が在るからな。旅費日当を貰って聴きに来た講演をサボって、芸者を揚げて舟遊山《ふなゆさん》をした……その酒の肴に前科者を雇って、生命《いのち》がけの不正漁業を実演させたとなったら事が穏やかでないからな。
 ナニ、吾輩に対する嫌疑かい。
 それあ無論かかったとも。……かかったにも何にも、お話にならないヒドイ嫌疑だ。人間の運命が傾き初めると意外な事ばかり続くものらしいね。
 その翌《あく》る朝の事だ。善後の処置について御相談したい事があるからというので、釜山|府尹《ふいん》官舎の応接間に呼び付けられてみると、どうだい。昨日《きのう》の事件は吾輩と、友吉おやじと、慶北丸の運転士来島とが腹を合わせた何かの威嚇手段じゃないか。その背後には在鮮五十万の漁民の社会主義的、思想運動の力が動いているのじゃないかというので、根掘り葉掘り訊問されたもんだ。どこから考え付いたものか解からんが馬鹿馬鹿し過ぎて返事も出来ない。よっぽど面喰って、血迷っていたんだね。……しかもその入れ代り立代り訊問する連中の中心に立った人間というのが誰でもない。昨日《きのう》、イの一番に芸妓《げいしゃ》を突飛ばして船尾のボートに噛《かじ》り付いた釜山の署長と予審判事と検事の三人組と来ているんだ。或は一種の責任問題から、この三人が先鋒に立たされたものかも知れないがね。……その背後には慶北、全南あたりの司法官が五六名、容易ならぬ眼色を光らしている。表面は事件の善後策に関する相談と称しながら、事実は純然たる秘密訊問に相違なかったのだ。
 吾輩は勿論、癪《しゃく》に障《さわ》ったから、都合のいい返事を一つもしてやらなかった。当り前なら法律と算盤《そろばん》の前には頭を下げる事にきめている吾輩だったが、あの時には、前の日に死んだ友吉おやじのヒネクレ根性が、爆薬の臭気《におい》とゴッチャになって、吾輩の鼻の穴から臓腑へ染《し》み渡っていたらしいね。
「吾輩の講演を忌避して、船遊山《ふなゆさん》を思い立ったのは誰でしたっけね」
 と空っトボケてやったもんだ。
 すると誰だか知らない検事か判事みたような男が背後《うしろ》の方から、
「それでも友吉親子を推薦したのは貴下《あなた》ではなかったか」
 と突込んで来たから、わざとその男の顔を見い見い冷笑してやった。
「……ハハハ……その事ならアンマリ突込まれん方が良くはないですか。実は昨晩、弁護士に調べさせてみますと、友吉の前科はズット以前に時効にかかっていたものだそうです。私は法律を知らないのですが……それでなくとも拘留中の現行犯人を引出して、犯罪の実演をさせるよりは無難だろうと思って、実は、あの男を推薦した次第でしたが……それでも貴方がたの法律眼から御覧になると、現行犯を使った方が合理的な意味になりますかな……」
 と乙《おつ》に絡んで捻《ね》じ返してくれた。吾れながら感心するくらい頭がヒネクレて来たもんだからね……ところが流石《さすが》は商売柄だ。これ位の逆襲には凹《へこ》まなかった。
「そんな事を議論しているのじゃない。友吉おやじに、あんな乱暴を働らかした責任は当然ソッチに在る筈だ。その責任を問うているのだ」
 と吾輩の一番痛いところを刺して来た。その時には吾輩、思わずカッとなりかけたもんだ……が、しかしここが大事なところと思ったから、わざと平気な顔で空を嘯《うそぶ》いて見せた。
「……成る程……その責任なら当方で十分十二分に負いましょうよ。……しかし爆弾を投げさせた心理的の動機はこの限りに非《あら》ずだから、そのつもりでおってもらいたいですな。無辜《むこ》の人間に生命《いのち》がけの不正を働らかせながら、芸妓《げいしゃ》を揚げて高見《たかみ》の見物をしようとした諸君の方が悪いにきまっているのだから……諸君は友吉おやじの最後の演説を記憶しておられるだろう……」
 と云って満座の顔を一つ一つに見廻わしたら、一名残らず眼を白黒させていたよ。
「……しかし……あれは元来……有志連中が計画したもので……」
 と隅の方から苦しそうな弁解をした者がいたので、吾輩は思わず噴飯《ふんぱん》させられた。
「……アハハ。そうでしたか。ちっとも知りませんでした。……しかし拙者が拝見したところでは、有志の連中には余り酔った者はいなかったようである。実際に泥酔して乱痴気《らんちき》騒ぎを演じたのは諸君ばかりのように見受けたが、違っていたか知らん。序《ついで》にお尋ねするが一体、諸君は講演の第二日の報告を、何と書かれるつもりですか。参考のために承っておきたい。まさか公会堂で演説中に爆弾が破裂したとも書けまいし……困った問題ですなあ……これは……」
 と冷やかしてやった。ところがコイツが一等コタエたらしいね。イキナリ、
「……ケ……怪《け》しからん……」
 と来たもんだ。眼先の見えない唐変木《とうへんぼく》もあったもんだね。
「……そ……そんな事に就いては職務上、君等の干渉を受ける必要はない。君はただ訊問に答えておればいいのだ」
 と頭ごなしに引っ被《かぶ》せて来た。……ところが又、こいつを聞くと同時に、最前《さっき》から捻じれるだけ捻じれていた吾輩の神経がモウ一《ひ》と捻じりキリキリ決着のところまで捻じ上ってしまったから止むを得ない。モウこれまでだ。談判破裂だ……と思うと、フロックの腕を捲くって坐り直したもんだ。
「……ハハア……これは訊問ですか。面白い……訊問なら訊問で結構ですから、一つ正式の召喚状を出してもらいましょうかね。その上で……如何にも吾輩が最初から計画してやった仕事に相違ない……という事にして、洗い泄《ざら》い泥水を吐き出しましょうかね。要するに諸君の首が繋がりさえすれあ、ほかに文句はないでしょう……」
 と喰らわしてやったら、連中の顔色が一度にサッと変ったよ。
「……エヘン……吾輩は多分、終身懲役か死刑になるでしょう。君等のお誂《あつら》え向きに饒舌《しゃべ》ればね……ウッカリすると社会主義者の汚名を着せられるかも知れないが、ソレも面白いだろう。日本民族の腸《はらわた》が……特に朝鮮官吏の植民地根性が、ここまで腐り抜いている以上、吾輩がタッタ一人で、いくらジタバタしたって爆弾漁業の勦滅《そうめつ》は……」
「……黙り給えッ……司直に対して僭越だぞ……」
「何が僭越だ。令状を執行されない以上、官等《かんとう》は君等の上席じゃないか……」
 と開き直ってくれたが、その時に横合いから釜山署長が、慌てて割込んで来た。
「……そ……それじゃ丸で喧嘩だ。まあまあ……」
「……喧嘩でもいいじゃないか。こっちから売ったおぼえはないが、ドウセ友吉おやじの鬱憤晴らしだ」
「……そ……そんな事を云ったらアンタの不利になる……」
「……不利は最初から覚悟の前だ。出る処へ出た方がメチャメチャになって宜《い》い……」
「……だ……だからその善後策を……」
「何が善後策だ。吾輩の善後策はタッタ一つ……漁民五十万の死活問題あるのみだ。お互いの首の五十や六十、惜しい事はチットモない。真相を発表するのは吾輩の自由だからね」
「そ……それでは困る。御趣旨は重々わかっているからそこをどっちにも傷の附かんように、胸襟《きょうきん》を開いて懇談を……」
「それが既に間違っているじゃないか。死んだ人間はまだ沖に放《ほう》りっ放《ぱな》しになっているのに何が善後策だ。その弔慰の方法も講じないまま自分達の尻ぬぐいに取りかかるザマは何だ。況《いわ》んや自分達の失態を蔽《おお》うために、孤立無援の吾輩をコケ威《おど》しにかけて、何とか辻褄《つじつま》を合わさせようとする醜態はどうだ」
「……………」
「ソッチがそんな了簡《りょうけん》ならこっちにも覚悟がある。……憚りながら全鮮五十万の漁民を植え付けて来た三十年間には、何遍、血の雨を潜ったかわからない吾輩だ。骨が舎利《しゃり》になるともこの真相を発表せずには措かないから……」
「……イヤ。その御精神は重々、相わかっております。誤解されては困ります。爆弾漁業の取締りに就いて今後共に一層の注意を払う覚悟でおりますが、しかし、それはそれとしてとりあえず今度の事件だけに就いての善後策を、今日、この席上で……」
 とか何とか云いながら上席らしい胡麻塩《ごましお》頭の一人が改まって頭を下げ初めた。それに連れて二三人頭を下げたようであったが、内心ヨッポド屁古垂《へこた》れたらしいね。しかし吾輩はモウ欺されなかった。
「……待って下さい。その交換条件ならこっちから御免を蒙りましょう。陛下の赤子《せきし》、五十万の生霊を救う爆弾漁業の取締りは、誰でも無条件で遣らなければならぬ神聖な事業ですからね。今後、絶対に君等のお世話を受けたくない考えでいるのです。……ですから君等の職権で、勝手な報告を作って出されたらいいでしょう。……吾輩は忙がしいからこれで失礼する」
「……まあまあ……そう急《せ》き込まずと……」
「いいや失敬する。安閑と君等の尻拭いを研究している隙《ひま》はない。……何よりも気の毒なのは死んだ二人の芸者だ。林友吉や、お互いの災難は一種の自業自得に過ぎないが、芸妓《げいしゃ》となるとそうは行かん。何も知らないのに巻添えを喰わされたばかりじゃない。面倒臭いといって沖に放り出されて鯖の餌食にされたんだから、気の毒も可愛想も通り越している。君等には関係のない事かも知れんが、これから行って大いに弔問してやらなくちゃならん。……もっとも今更、線香を附けてやったって成仏《じょうぶつ》出来まいとは思うがね。ハッハッハッハッハッ……」
 といった調子で、今まで溜まっていた毒気を一度に吹っかけながら退場してくれた。……ハハハハ。イヤ。痛快だったよ。何の事はない役人連中、蚊《か》を突っついて藪《やぶ》を出した形になった。おまけにアトから聞いてみると、当日来なかった連中の中の十人ばかりが風邪を引いて、宿屋に寝ていたというのだから吾輩イヨイヨ溜飲を下げたもんだよ。
 とはいうものの……白状するが吾輩は、そのアトから直ぐに有志連中が調停に来るものと思って、実は手具脛《てぐすね》を引いて待っていたもんだ。……来やがったらドウセ破れカブレの刷毛序《はけつい》でだ。思い切り向う脛《ずね》を掻っ払ってくれようと思って、一週間ばかり心待ちに待っていたがトウトウ来ない。可怪《おか》しいと思って様子を探っていると、これも慌てて海に飛び込んだ頭株の四五人が、ヒドイ風邪を引いて寝てしまった。しかも、その中《うち》の一人は急性肺炎……モウ一人は心臓麻痺でポックリ死んでしまったので、それやこそ……死んだ友吉の祟りだ。友吉風《ともきちかぜ》友吉風というので何ともない奴までオゾ毛を慄《ふる》って蒲団《ふとん》を引っ冠《かぶ》っているという……実に滑稽なお話だが、とにかくソレくらい恐ろしかったんだね。友吉たるもの以《もっ》て瞑《めい》すべしだろう。……もっとも一方から考えてみると有志連中は懲役に行っても職業《しょうばい》を首にされる心配はない。だから役人連中に泣き付かれない限り調停に立つ必要もない。又、泣き付かれたにしたところが、二度と吾輩を丸め込む見込みはない……というないないの三拍子が揃っているんだから、知らん顔をして寝ていたんだろう。……但《ただし》新聞社には遺憾なく手を廻わしたものと見えて、一行も書かなかった。だから結局、死んだ奴が死に損という事になった訳だ。
 不人情なものさね。
 しかし真剣なところが「友吉風邪」ぐらいの事で癒える吾輩の腹ではなかった。
 芸者や友吉は成仏しても、吾輩が成仏出来ない。吾輩が観念しても五十万
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