途から引っ切れたままブラ下がっていた。切れ落ちたボートは人間を満載したまま一度デングリ返しを打った奴が、十間ばかり離れた処に漂流していたが、その周囲には人間の手が、干大根《ほしだいこん》を並べたようにビッシリと取付いている。……にも拘わらず、その尻の切れた二本の綱には、上から上から取付いてブラ下がって来る人間が、重なり重なり繋がり合っているのだ。芸者、紳士、警官、お酌、判事、検事、等々々といった順序に重なり合った珍妙極まる人間の数珠玉《じゅずだま》なんだ。しかもその一つ一つが「助けてくれ助けてくれ」と五色《ごしき》の悲鳴をあげているのだから、平生なら抱腹絶倒の奇観なんだが、この時はドウシテ……その一人一人が絶体絶命の真剣なんだから遣り切れない。巡査の握り拳《こぶし》の上に芸者のお尻がノシかかって来る。仲居《なかい》の股倉が有志の肩に馬乗りになる。「降りちゃ不可《いか》ん降りちゃ不可ん」と下から怒鳴っているんだから堪《たま》らない。ズルリズルリと下がって来るうちに、見る見る綱が詰まって来てポチャンポチャンと海へ陥《お》ち込む。そのまま、
「……アアッ……ああッ……」
と藻掻《もが》き狂いながらブクブクブクと沈んで行く。その表情のムゴタラシサ……それを上から見い見いブラ下がっている連中の悲鳴のモノスゴサといったらなかったよ。
そんな光景を見殺しにしながら仕事をしていた吾輩は、仕事が済むとモウ矢も楯《たて》もたまらない。道具袋を海にタタッ込んで、抜手を切って沖合いの小舟に泳ぎ付いた。血だらけの櫓柄《ろづか》を洗って、臍《へそ》に引っかけると水舟のまま漕ぎ戻して、そこいらのブクブク連中をアラカタ舷《ふなべり》の周囲に取付かせてしまったので、とりあえずホッとしたもんだ。
その間に来島は本船に上って、帆布《キャンバス》で塞いだ穴の内側から、本式にピッタリと板を打付けた。一層|馬力《ばりき》をかけて水を汲み出す一方に、在《あ》らん限りの品物を海に投込む。ボートの連中を艙口《ハッチ》から収容すると、今度は船員が漕ぎながら人間を拾い集める。綱を持った水夫を飛込ましてブカブカ遣っている連中を拾い集める。上って来た奴は片《かた》っ端《ぱし》から二等室に担ぎ込んで水を吐かせる。摩擦する。人工呼吸を施すなどして、ヤットの事で取止めた頭数を勘定してみると、警官、役人、有志、人夫を合わせて、七名の人間が死んでいる。そのほかに芸妓《げいしゃ》二名の行方がわからない……という事が判明した。これは男連中が腕力に任せて先を争った結果で、同時に女を見殺しにした事実を雄弁に物語っているのだ。お酌や仲居が一人も飛込まないで助かったのは、お客や姉さん等に対して遠慮勝ちな彼等の平生の癖が、コンナ場合にも出たんじゃないかと思うがね。イヤ。冗談じゃないんだ。危急の場合に限って平生の習慣が一番よく出るもんだからね。
ところがその中《うち》に西寄りの北風が吹き初めて、急に寒くなったせいでもあったろうか。死骸を並べた二等室の広間に青い顔をして固まり合っていた、生き残りの連中が騒ぎ初めた。当てもないのに立ち上りながら異口《いく》同音に、
「……帰ろう帰ろう。風邪を引きそうだ……」
「船長を呼べ船長を呼べ……」
とワメキ出したのには呆れ返ったよ。イクラ現金でもアンマリ露骨過ぎる話だからね。片隅で屍体の世話を焼いていた丸裸の来島運転士も、これを聞くと顔色を変えて立上ったもんだ。あらん限りの醜態を見せ付けられてジリジリしていたんだからね。
「……何ですって……帰るんですって……いけませんいけません。まだ仕事があるんです」
「……ナンダ……何だ貴様は……水夫か……」
「この船の運転士です。……船の修繕はもうスッカリ出来上っているんですから、済みませんがモウ暫く落付いていて下さい。これから屍体の捜索にかかろうというところですからね」
「……探してわかるのか……」
「……わからなくたって仕方がありません。行方不明の屍体を打っちゃらかして、日の暮れないうちに帰ったら、貴方がたの責任問題になるんじゃないですか。……モウ一度探しに来るったって、この広ッパじゃ見当が付きませんよ」
と詰め寄ったが、裁判所や、警察連中は、何を憤《おこ》っているのか、白い眼をして吾輩と来島の顔を見比べているばかりであった。すると又その中《うち》に大勢の背後《うしろ》の方で、
「……アア寒い寒い……」
と大きな声を出しながら、四|合瓶《ごうびん》の喇叭《ラッパ》を吹いていた一人が、ヒョロヒョロと前に出て来た。トロンとした眼を据えて、
「……何だ何だ。わからないのは芸妓《げいしゃ》だけじゃないか。芸妓なんぞドウでもいい……」
とウッカリ口を辷らしたから堪《た》まらない。隅ッ子の方に固まっていた雛妓《おしゃく》が「ワ
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