い、ヘシ合い、突飛ばし合いながら両舷のボートに乗移ろうとする。上から上から這いかかり乗りかかる。怪我《けが》をする。血を流す。嘔吐《は》く。気絶する。その上から踏み躙《にじ》る。警官も役人も有志も芸妓《げいしゃ》も有ったもんじゃない。皆血相の変った引歪《ひきゆが》んだ顔ばかりで、醜態、狼狽、叫喚、大叫喚の活地獄《いきじごく》だ。その上から非常汽笛が真白く、モノスゴク、途切《とぎ》れ途切れに鳴り響くのだ。
左右の舷側に吊した四隻のカッター端舟《ボート》はセイゼイ廿人も乗れる位のもので在ったろうか。一|艘《そう》毎に素早い船員が飛乗って、声を嗄《か》らして制止しているが耳に入れる者なんか一人も居ない。我勝ちに飛乗る、縋《すが》り付く、オールを振廻すという状態で、あぶなくて操作が出来ない。そのうちに左舷の船尾から猛烈な悲鳴が湧き起ったから、振り返ってみると、今しも人間を山盛りにして降りかけた端舟《ボート》が、操作を誤って片っ方の吊綱《ロープ》だけ弛《ゆる》めたために、逆釣《さかづ》りになってブラ下がった。同時に満載していた人間がドブンドブンと海へ落ちてしまったのだ。海の深さはそこいらで十五六|尋《ひろ》も在ったろうか……。
それを見た瞬間に吾輩はヤット我に返った……これは俺の責任……といったような感じにヒドク打たれたように思う。
傍を見ると船長が吾輩と同じ恰好でボンヤリと突立っている。肩をたたいて見たが、唖然《あぜん》として吾輩を振り返るばかりだ。船橋《ブリッジ》の下の光景に気を呑まれていたんだろう。
吾輩はその横で背広服を脱いで、メリヤスの襯衣《シャツ》とズボン下だけになった。メリヤスを一枚着ていると大抵な冷《つ》めたい海でも凌《しの》げる事を体験していたからね。それから船橋《ブリッジ》の前にブラ下げて在った浮袋《ブイ》を一個《ひとつ》引っ抱えて上甲板へ馳け降りた。船尾から落ちた連中を救《たす》けて水舟に取付かせてやるつもりだった。それからボートの前の連中を整理して狼狽させないようにしようと思い思いモウ一つ下甲板へ馳け降りると、その階段の昇り口の暗い処でバッタリとこの船の運転士に行き会った。よく吾輩の処へ議論を吹っかけに来る江戸ッ子の若造《わかぞう》で、友吉とも心安い、来島《くるしま》という柔道家だったが、これも猿股一つになって、真黒な腕に浮袋を抱え込んでいた。
「……あっ……轟先生。ちょうどいい。一所《いっしょ》に来て下さい」
と云ううちに吾輩を引っぱって、客室の横の階段から廊下伝いに混雑を避けながら、誰も居ない船首へ出た。その時に非常汽笛がパッタリと鳴り止んだので、急に淋しく、モノスゴクなったような気がしたが、そこで改めて来島の顔を見ると、眼に泪《なみだ》を一パイ溜め、青い顔をしている。友太郎の事を考えているのだろうと思ったが、しかし二人とも口には出さなかった。来島は落付いて云った。
「……轟先生……損害は軽いんです。汽笛《ふえ》なんか鳴らしたから不可《いけ》なかったんです。……傾《かし》いだ原因はまだ判然《わか》りませんが、船底の銅版《あか》と、木板《いた》の境い目二尺に五尺ばかりグザグザに遣られただけなんです。都合よく反対に傾《かし》いだお蔭で、モウ水面に出かかっているんですから、外から仕事をした方が早いと思うんです。済みませんが先生、この道具袋《フクロ》を持って飛込んでくれませんか。水夫も火夫もみんなポンプに掛り切っていて手が足りないんですから……浮袋《ブイ》を離してはいけませんよ。仕事が出来ませんから……いいですか……」
吾輩は一も二もなくこの若造の命令に従って海に飛込んだ。イザとなると覚悟のいい奴には敵《かな》わないね。
ところが、それから引続いた来島の働らき振りには吾輩イヨイヨ舌を捲かされたもんだよ。溺れている人間なんか見向きもしない。一生懸命で、上からブラ下げた綱に縋《すが》りながら、船の横っ腹に取付いて、穴の周囲にポンポンポンと釘を打ち並べると、八番ぐらいの銅線を縦横十文字《じゅうおうむじん》に引っかけまわした。その上から帆布《キャンバス》を当てがって、片っ方から順々に大釘で止めて行く……最後に残った一尺四方ばかりの穴から猛烈に走り込む水を、針金に押し当てがった帆布《キャンバス》で巧みにアシライながら遮り止めてしまった。その上からモウ二枚|帆布《キャンバス》を当てがって、周囲《まわり》をピッシリ釘付けにして、その上からモウ一つ、流れていた櫂《オール》を三本並べながら、鎹釘《かすがい》で頑丈にタタキ付けてしまった。どこで研究したものか知らないが、百人ばかりの生命《いのち》の親様だ。思わず頭が下がったよ。
その吾々が仕事をしている二三|間《げん》向うには、端舟《ボート》の釣綱《つりつな》が二本、中
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