ッ」と泣き出す……トタンに来島の血相が又も一変して真青になった。
「……何ですか貴方は……芸妓《げいしゃ》なんぞドウでもいいたあ何です」
「……バカア……好色漢《すけべえ》……そんな事を云うたて雛妓《おしゃく》は惚れんぞ……」
「……惚れようが惚れまいがこっちの勝手だ。フザケやがって……芸妓《げいしゃ》だって同等の人間じゃねえか。好色漢《すけべえ》がドウしたんだ……手前《てめえ》等あ役人の癖に……」
と云いさしたので吾輩は……ハッ……としたが間に合わなかった。二三人の警官と有志らしい男が一人か二人、素早く立上って来島と睨み合った。しかし来島は眉一つ動かさなかった。心持ち笑い顔を冴え返らしただけであった。
「……何だ……貴様は社会主義者か……」
「……篦棒《べらぼう》めえ人道主義者だ……このまんま帰れあ死体遺棄罪じゃあねえか。不人情もいい加減にするがいい……手前《てめえ》等あタッタ今までその芸妓《げいしゃ》を……」
「黙れ黙れッ。貴様等の知った事じゃない。吾々が命令するのだ。帰れと云ったら帰れッ……」
「……ヘン……帰らないよ。海員の義務って奴が在るんだ。芸妓《げいしゃ》だろうが何だろうが……」
「……馬鹿ッ……反抗するカッ……」
と云ううちに前に居た癇癪持ちらしい警官が、来島の横ッ面《つら》を一つ、平手でピシャリとハタキ付けた。トタンに来島が猛然として飛かかろうとしたから、吾輩が逸早《いちはや》く遮《さえぎ》り止めて力一パイ睨み付けて鎮《しず》まらした。来島は柔道三段の腕前だったからね。打棄《うっちゃ》っておくと警官の一人や二人絞め倒おしかねないんだ。
そのうちに来島は、吾輩の顔を見てヒョッコリと頭を一つ下げた。そのまま火の出るような眼付きで一同を見まわしていたが、突然にクルリと身を飜《ひるがえ》すと、入口の扉《ドア》をパタンと閉めて飛び出して行った。吾輩もそのアトから、何の意味もなしに飛出して行ったが、来島の影はどこにも見えない。船橋《ブリッジ》に上って見ると船はもう轟々と唸りながら半回転しかけていた。
その一面に白波を噛み出した曇り空の海上の一点を凝視しているうちに吾輩は、裸体《はだか》のまんま石のように固くなってしまったよ。吾輩の足下に大波瀾を捲き起して消え失せた友吉親子と、無情《つれ》なく見棄てられた二人の芸妓《げいしゃ》の事を思うと、何ともいえない悽愴たる涙が、滂沱《ぼうだ》として止《とど》まるところを知らなかったのだ。……
……ドウダイ……これが吾輩の首無し事件の真相だ。君等の耳には最《もう》、トックの昔に這入っている事と思っていたんだが……秘密にすべく余りに事件が大き過ぎるからね。
ウンウンその通りその通り。朝鮮の内部で喰い止めて内地へ伝わらないように必死的の運動をしたものに相違ないね。司法官連中にも弱い尻が在るからな。旅費日当を貰って聴きに来た講演をサボって、芸者を揚げて舟遊山《ふなゆさん》をした……その酒の肴に前科者を雇って、生命《いのち》がけの不正漁業を実演させたとなったら事が穏やかでないからな。
ナニ、吾輩に対する嫌疑かい。
それあ無論かかったとも。……かかったにも何にも、お話にならないヒドイ嫌疑だ。人間の運命が傾き初めると意外な事ばかり続くものらしいね。
その翌《あく》る朝の事だ。善後の処置について御相談したい事があるからというので、釜山|府尹《ふいん》官舎の応接間に呼び付けられてみると、どうだい。昨日《きのう》の事件は吾輩と、友吉おやじと、慶北丸の運転士来島とが腹を合わせた何かの威嚇手段じゃないか。その背後には在鮮五十万の漁民の社会主義的、思想運動の力が動いているのじゃないかというので、根掘り葉掘り訊問されたもんだ。どこから考え付いたものか解からんが馬鹿馬鹿し過ぎて返事も出来ない。よっぽど面喰って、血迷っていたんだね。……しかもその入れ代り立代り訊問する連中の中心に立った人間というのが誰でもない。昨日《きのう》、イの一番に芸妓《げいしゃ》を突飛ばして船尾のボートに噛《かじ》り付いた釜山の署長と予審判事と検事の三人組と来ているんだ。或は一種の責任問題から、この三人が先鋒に立たされたものかも知れないがね。……その背後には慶北、全南あたりの司法官が五六名、容易ならぬ眼色を光らしている。表面は事件の善後策に関する相談と称しながら、事実は純然たる秘密訊問に相違なかったのだ。
吾輩は勿論、癪《しゃく》に障《さわ》ったから、都合のいい返事を一つもしてやらなかった。当り前なら法律と算盤《そろばん》の前には頭を下げる事にきめている吾輩だったが、あの時には、前の日に死んだ友吉おやじのヒネクレ根性が、爆薬の臭気《におい》とゴッチャになって、吾輩の鼻の穴から臓腑へ染《し》み渡っていたらしいね。
「吾輩
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