れたものじゃない。……むろん吾輩の方から低頭平身して仲間に入れてもらったが、その席上で友吉おやじは吾輩の前に両手を突いて涙を流した。
「……もうもうドン商売は思い切りました。これを御縁に貴方の乾児《こぶん》にして、小使でも何でもいい一生を飼殺しにして下さい。忰を一人前の人間に仕立てて下さい。給金なんぞは思いも寄らぬ。生命《いのち》でも何でも差出します」
という誠意満面の頼みだ。
吾輩が、そこで大呑込みに呑込んだのは云うまでもない。
そこで今まで使っていた鮮人に暇を出して、鬚だらけの友吉おやじを追い使う事になったが、そのうちに機会を見て、吾輩の胸中を打明けてみると、友吉おやじ驚くかと思いの外《ほか》平気の平左でアザ笑ったものだ。
「……へへへ……そのお話なら私がスパイになるまでも御座いません。とりあえず私が存じておりますだけ饒舌《しゃべ》ってみましょう。それで足りなければ探っても見ましょうが……」
と云うのでベラベラ遣り出したのを聞いている中《うち》に吾輩ふるえ上ってしまったよ。この貧乏な瘠せおやじが、天下無双の爆薬密売買とドン漁業通の上に、所謂、千里眼、順風耳《じゅんぷうじ》の所有者だという事をこの時がこの時まで知らなかったんだからね。
とりあえず匕首《あいくち》を咽喉《のど》元に突付けられたような気がしたのは、対州から朝鮮に亘るドン漁業の十数年来の根拠地が、吾輩の足元の釜山|絶影島《まきのしま》だという事実だった。
「……それが虚構《うそ》だと云わっしゃるなら、この窓の処へ来て見さっせえ。あの向うに見える絶影島のズット右手に立派な西洋館が建っておりましょう。あの御屋敷は、先生の御親友で釜山一番の乾物問屋の親方さんのお屋敷と思いますが、あの西洋館の地下室に詰まっている乾物の中味をお調べになった事がありますかね」
と来たもんだ。
燈台|下《もと》暗しにも何にも、吾輩はその親友と前の晩に千芳閣で痛飲したばかりのところだったから、言句《ことば》も出ずに赤面させられてしまった。
「……お気に障《さわ》ったら御免なさいですが、林友吉は決してお座なりは申しまっせん。日本内地から爆薬《ハッパ》を、一番安く踏み倒おして買うのが、あのお屋敷なんです。アラカタ一本七十五銭平均ぐらいにしか当りますまい。お顔と財産が利いている上に現金払いですから、安全な事はこの上なしですがね
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