世の不思議、今眼の前に現われて、
 眼は見え耳はきこえても、手足は軽く動いても、
 昨日《きのう》為《し》た事今日忘れ、先刻《さっき》した事今忘れ、
 自分の事も他事《ひとごと》も、忘れ忘れていつ迄も、
 限りない年生き延びた、聞こえ聾《つんぼ》の見え盲目《めくら》。
 不思議な王の知ろし召《め》す、奇妙な国の物語。

 昔々のその昔、世界に生きたものが無く、
 只《ただ》岩山と濁《にご》り海、真暗闇《まっくらやみ》のその中《うち》に、
 或る火の山の神様と、ある湖の神様と、
 二人の間に生れ出た、たった一人の大男。
 金剛石の骨組に、肉と爪とは大理石。
 黒曜石の髪の毛に、肌は水晶血は紅玉《ルビー》。

 岩角ばかりで敷き詰めた、広い曠野《あれの》の真中で、
 大の字|形《なり》の仰向《あおむ》けに、何万年と寝ていたが、
 或る時天の向うから、大きな星が飛んで来て、
 寝てる男の横腹へ、ドシンとばかりぶつかった。

 男はウンと云いながら、青玉の眼を見開いて、
 どこが果ともわからない、暗《やみ》の大空見上ぐれば、
 左の眼からは日の光り、右の眼からは月の影、
 金と銀とに輝やいて、二ツ並んで浮み出し、
 一ツは昼の国に照り、一ツは夜の国に行く。

 瞬《まばた》きすれば星となり、呼吸をすれば風となり、
 嚏《くしゃみ》をすれば雷《らい》となり、欠伸《あくび》をすれば雲となる。

 男はやがてむっくりと、山より大きな身を起し、
 ずっと周囲《まわり》を見まわせば、四方《あたり》は岩と土ばかり。
 もとより生きた者とては、艸《くさ》一本も生えて無い。

 男はあまりの淋しさに、オーイオーイと呼んで見た。
 けれどもあたりに一人《いちにん》も、人間らしい影も無く、
 大石小石の果も無い、世界に自分は唯一人。

 青い空には雲が湧く。幾個《いくつ》も幾個も連れ立って、
 さも楽し気に西へ行く。けれども自分は唯一人。

 黒い海には波が立つ。仲よく並んでやって来て、
 岸に砕けて遊んでる。けれども自分は唯一人。

 もとより不思議の大男。家《うち》も着物も喰べ物も、
 何んにも要らぬ身ながらに、相手といっては人間や、
 鳥や獣《けもの》はまだ愚か、艸《くさ》一本も眼に入らぬ、
 広い野原の恐ろしさ。石の野原の凄《すさま》じさ。

 折角生れて来たものの、話し相手も何も無い、
 淋しさつらさ情なさ。男はとうとう焦《じ》れ出して、
 一体誰がこの俺を、こんな野原に生み出した。
 一体誰がこの俺を、こんな荒野《あれの》に連れて来た。

 寧《いっ》そ眠っているならば、死ぬまで眠っているならば、
 こんな淋しい情ない、つらい思いはしまいもの。
 一体誰がこの俺を、ドシンとなぐって起したと、
 ぬっくとばかり立ち上り、声を限りに怒鳴《どな》ったが、
 答えるものは山彦の、野末に渡る声ばかり。

 青い空には雲が湧く。けれども自分は只一人。
 黒い海には波が立つ。けれども自分は只一人。

 男はとうとう怒り出し、吾れと吾が髪引掴み、
 赤く血走る眼を挙げて、遠い青空|睨《にら》みつつ、
 大声揚げて泣きながら、天も響《ひび》けと罵《ののし》った。

 大空も聞け土も聞け、山も野も聞け海も聞け。
 目に見えるもの見えぬ者、あらゆる者よ皆《みんな》聞け。
 俺は死ぬのだ今直ぐに、この場で死んで了《しま》うのだ。
 われと自分の淋しさに、天地を怨《うら》んで死ぬるのだ。
 こんな淋しい恐ろしい、所に長く生きていて、
 悲しい思いするよりは、死んでしまった方が好い。

 こんな眼玉があったとて、面白いもの見なければ、
 綺麗なものを見なければ、何の役にも立たないと、
 われと吾が眼をえぐり出し、虚空《こくう》はるかに投げ棄てた。
 その投げ上げた眼の玉が、地面《じべた》に落ちたその時は、
 一字も文字の書いて無い、巻いた書物となっていた。

 二ツの耳もこの上に、面白い事聴かれねば、
 他人《ひと》の話しもきかれねば、何の役にも立たないと、
 両方一度に引き千切り、地面の上に打ち付けた。
 すると二ツ耳も亦、地面に落ちると一時《いちどき》に、
 一ツも穴の明いて無い、重たい石の笛となる。

 鼻はあっても見る限り、咲く花も無い広い野の、
 埃《ほこり》に噎《む》せるばかりでは、却《かえっ》て邪魔《じゃま》にしかならぬ、
 糞《くそ》の役にも立たないと、これも千切って打ち付けた。
 するとガタンと音がして、糸を張らない月琴《げっきん》が、
 この大男の足もとの、石の間に落っこちた。

 又|一人《いちにん》も話しする、相手が無ければこの舌も、
 無駄なものだと云ううちに、ブツリとばかり噛み切って、
 石の間に吐《は》き棄《す》てた。それと一緒にコロコロと
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