《てのひら》の中の十円の金貨を引ったくって、よろよろとよろめいて行った。
姫は大層面白い話だとは思ったが、何しろあんまり短くて張り合いがなかった。だから今度はなるべく長く委《くわ》しく話してもらおうと思って、酔《よ》っ払《ぱら》いのあとから通りかかったお婆さんの傍へ寄って、事情《わけ》を話して身の上話しを聞かしてくれと頼んだ。
このお婆さんも不思議な風体《ふうてい》で、頭は白髪が茫々《ぼうぼう》と乱れているのに、藁《わら》で編んだ笠を冠《かむ》り、身には長い穀物《こくもつ》の袋に穴を明けたのに両手と首を通して着ていて、足には片方《かたっぽう》にスリッパ、片方には膝まで来る長靴を穿《は》いて、一尺ばかりの杖を突張って地面に這い付く程に腰を曲げていた。そうして矢張《やっぱ》り最前の酔払いと同じように、美留女姫が出し抜けに奇妙な事を頼んだのに驚いたと見えて、杖につかまって腰を伸ばしながら、霞んだ眼を真《ま》ン円《まる》にして姫の顔を見ていたが、やがてニヤリと笑いながら金貨を貰ってそのまま杖を突張って行こうとした。姫は慌てて袖に縋《すが》って――
「アレお婆さん。お話しはどうしたのです。何卒《どうぞ》あなたの身の上話を聞かして下さいな」
「何も話す事はありませぬ。只《ただ》三万日の間つまらなく長く生きていたばかりで御座います」
「まあ三万日……八十年ですわね。でもその間に何か珍しい事があったでしょう」
「アア。そうそうたった二ツありましたよ」
「それはどんな事ですか?」
「一ツは生れてはじめてお話気違いというものを見た事で御座います」
「オヤ。いつ、どこで?」
「今、ここで」
「マア。ではも一ツは?」
「十円の金貨というものをこの手に生れて初めて握った事で御座います。ほんとに有り難う御座いました。さようなら」
と云いながら袖をふり払ってどこかへ行ってしまった。
こんな風に遇《あ》う者も遇う者も皆姫を気違いか馬鹿扱いにして、散々|嘲弄《からか》ってはお銭《あし》を持って行ってしまったから、一時間と経たぬうちに姫の財布はすっかり空っぽになってしまった。その中《うち》でも非道《ひど》い奴はお金も何も取らない代りに――
「俺は今忙がしいんだ。そんな馬鹿の相手になってはいられない」
と剣突《けんつく》を喰《くら》わして行ったものもあった。
姫はもうすっかり気を落してしまって、迚《とて》もこんな塩梅《あんばい》では一生涯面白い珍らしい話を聞く事は出来ないであろう。彼《か》の赤|鸚鵡《おうむ》は嘘を吐《つ》いたのか知らん。もし本当にこれから一ツも新しいお話を聞く事が出来なければ、もう一生涯何の楽しみも無くなってしまったのだから、死んだ方がいくら良《い》いか知れない。噫《ああ》、情ない事になった。詰《つま》らない事になったと、しくしく泣きながら、街外れの只《と》ある河岸まで来るともなく歩いて来ると、そこに立っている大きな銀杏《いちょう》の樹の根元に腰をかけて、疲れた足を休めようとした。けれどもまだ腰をかけぬ前に姫はその銀杏の樹の根元に思いがけないものを見つけて、忽《たちま》ち躍《おど》り上らんばかりに喜んだ。その時姫が見付けたのがこの白髪小僧と題した不思議なお話の書物であった。
姫はこの書物が、竜《りゅう》のようにうねった銀杏の樹の根本に乗っているのを見つけると直ぐに、この書物こそ自分が今まで一度も見た事のない書物だと思って、思わず駆《か》け寄って手に取ろうとしたが、又ハッと気が付いて立ち止まった。見れば大分古びた書物のようだから、これは屹度《きっと》誰かがここに置き忘れて行ったものに違いない。して見ればこれを黙って開いて見るのは泥棒と同じ事だと思って、出しかけた手を引っこめた。
姫は折角こんな有り難い事に出くわしながら、指一本指す事も出来ず、持ち主の来るのを待っていなくてはならぬのが、自烈度《じれった》くて堪《たま》らなかった。早く持ち主が来てくれればいい。そうして自分にこの書物を貸してくれればいいと、足摺りをして立っていた。けれどもどういうものか、持ち主は愚《おろ》か人間らしいものは一人も遣って来ないで、その代りに空から銀杏の葉が黄金《こがね》の雪のようにチラチラと降って来て、書物のまわりに次第次第に高く積りはじめた。そうしてその黒い表紙がだんだんと見えなくなって、もうあと一二枚落ちるとすっかり銀杏の葉で隠れてしまいそうになると、最前《さっき》から我慢の出来るだけ我慢をしていた姫は、もう堪《たま》らなくなって、我れ知らず傍に走り寄って、銀杏の葉を掻《か》き除《の》けて書物を拾い上げて、表紙を一枚夢中でめくって見た。
すると姫は又もやそこに夢ではないかと思う程不思議なものを見つけた。その初めの処にはっきりとした文字で『白髪小僧と美
前へ
次へ
全56ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング