し》に冷たい水が口の中に這入りましたので、又やっと自分が湖の底に居るのに気が付きました。そうして手足をぶるぶると震わせながら、眼の前の不思議に見惚《みと》れて、恍惚《うっとり》としてしまいました。美留藻は今まで賤《いや》しい漁師の娘で、自分の姿なぞを構った事は一度も無く、殊にこの国では昔から、鏡というものを見た者も聞いた者も無く、つまり自分の姿を見たのはこれが初めてでしたから、驚いたのも無理はありませぬ。
扨はこれが妾の姿か。妾は矢張り美留女姫であったのか。妾はこんなに美しかったのか。こんなに気高い女であったのか。漁師の娘なぞというさえ勿体《もったい》ない。女王と云った方がずっとよく似合っているこの美しさ、気高さ、優しさ。まあ、何という艶《あで》やかさであろう。そうして妾は矢張り彼《か》の夢の中の書物で見た通りに、女王になるのであったかと思うと、最早嬉しいのか恐ろしいのか解からずに、そのまま気が遠くなりまして、宝石の上に座り込んで、一生懸命気を押《お》し鎮《しず》めました。
扨やっと気が落ち付いてから、又もや鏡の傍へ差し寄って、つくづくと自分の姿に見とれましたが、見れば見る程美しくて、とてもこの世の人間とは思われませぬ。こんな綺麗な容色《きりょう》を持ちながら、こんな気高い姿でありながら、もし彼《か》の夢を見なければ、彼の低い暗い家の中に住んで、あの泥土を素足で踏んで、彼《か》の腥《なまぐさ》い魚《うお》を掴むのを、自分の一生の仕事に為《す》るところであったのか。姿は美しいとはいえ、又笛は名人とはいえ、どうせ只の漁師の伜《せがれ》の、彼《か》の汚い着物を着た香潮の妻になって、つまらなく暮すのが自分の身の上だったのか。嗚呼《ああ》、勿体ない。勿体ない。この鏡や宝石を海の底に沈めておくよりも、まだずっと勿体ない事だ。どうかして妾は妾に似合ったずっと気高いお方の処へお嫁に行って、彼《か》の絵の通りに女王になって見たいものだ。藍丸国の天子様の御妃になって、この姿をもっと美しく気高くして、国中の人達に見せびらかしたいものだ。思えばこの鏡は世界中の女の中《うち》で、妾が一番最初に自分の姿をうつしたのだから、もしかしたら妾をそういう身分にするためにここに沈んで、妾を待っていたのかもしれぬ。いや、屹度そうなのだ。それに違いない。そうだそうだと、忽ちの内に気が変りました美留藻は、
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