是非申し上げなければならぬ事が御座いますから」
「濃紅がどうしたというのだ」
「エエッ。最早《もはや》王様は御忘れ遊ばしましたか。彼《か》の御約束を御忘れ遊ばしましたか」
「忘れはせぬ。けれども約束を守るなぞという事は大嫌いになった。昨日《きのう》の王と今日の王は別人だ。そんな約束を守らなくともよい。もしその濃紅姫とやらを后に為《し》たいと思うならば、最前《さっき》国中に布告《ふれ》さした通りに、今日から一週間の後《のち》に、国々の女と一所に宮中へ差し出せ。もし気に入ったら后にしてやる。帰ってその事を妹に知らして、支度をさせておけ。間違うと許さぬぞ。その他に用事は無い。帰れ」
と世にも無法な言葉です。紅矢は今日まで、両親《ふたおや》よりも、妹共よりも、誰よりも慕わしく懐かしく、天にも地にも二人と無い、慈悲深い気高い王様と思い込んでいたのに、今は鬼よりも無慈悲な、獣《けだもの》よりも賤《いや》しい御心になられて、その声までも虎のように荒々しくなられた事が解かりました。その上に今まで、何よりも楽しみにしていた濃紅姫の事を、王は自分で約束しながら、自分で破って、あられもない国々の賤《いや》しい女共と一所に、一週間の後に御目見得に出せとは、まあ何という浅ましい仰せであろうと、余りの悲しさ情なさに紅矢は前後を忘れてしまって、泣くにも泣かれず、只狂気のように頭の毛を掻《か》きむしりながら、驀然《まっしぐら》に王宮を駈け出ました。
十三 名馬の蹄音
紅矢が王宮を駈け出ますと、直ぐに王は又鏡に向って、最前の美留藻《みるも》がお婆さんに化けた後《のち》の有様を見せろと命じました。けれどもまだ鏡に何も映らぬ前に、王は不意に恐ろしい物音を聞きつけて叫びました――
「あれ。あの音は何だ。雷の響か。霰《あられ》の音か。否々《いやいや》。馬の蹄《ひづめ》の音だ。何という高い蹄の音であろう。何という疾《はや》い馬であろう。あれ、王宮の周囲《まわり》を街伝いに、もう一度廻ってしまった。あの馬の騎《の》り手はこの夜更けに何のためにこの王宮のまわりを駈けめぐるのであろう。あんな疾い馬がこの世に在るか知らん。騎《の》り人《て》は俺の知らぬ魔者ではないか知らん。あれ、最早《もう》二度まわってしまった。今度は三度目だ。これ、白銀《しろがね》の鏡。赤鸚鵡。美留藻の行衛《ゆくえ》は最早《もう》
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