白菊
夢野久作

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)虎蔵《とらぞう》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一本|槍《やり》の逃走戦術に

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「木+霸」、第3水準1−86−28]《つか》
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 脱獄囚の虎蔵《とらぞう》は、深夜の街道の中央《まんなか》に立ち悚《すく》んだ。
 黒血だらけの引っ掻き傷と、泥と、ホコリに塗《ま》みれた素跣足《すはだし》の上に、背縫《せぬい》の開いた囚人服を引っかけて、太い、新しい荒縄をグルグルと胸の上まで巻き立てている彼の姿を見たら、大抵の者が震え上がったであろう。毬栗頭《いがぐりあたま》を包んだ破れ手拭《てぬぐい》の上には、冴《さ》え返った晩秋の星座が、ゆるやかに廻転していた。
 虎蔵はそのまま身動き一つしないで、遥か向うの山蔭に光っている赤いものを凝視していた。その真白く剥き出した両眼と、ガックリ開《あ》いた鬚《ひげ》だらけの下顎《したあご》に、云い知れぬ驚愕《きょうがく》と恐怖を凝固させたまま……。
 それは虎蔵が生れて初めて見るような美しい、赤い光りであった。それは彼が永いこと飢え、憧憬《あこが》れて来たチャブ屋の赤い光りとは全然違った赤さであった。又、彼が時々刻々に警戒して来た駐在所や、鉄道線路の赤ラムプの色とも違っていた。ネオンサインの赤よりもズット上品に、花火の赤玉よりもズットなごやかな、綺麗なものであった。……といって閨房《けいぼう》の灯《あかり》らしい艶媚《なまめか》しさも、ほのめいていない……夢のように淡い、処女のように人なつかしげな、桃色のマン丸い光明《こうみょう》が、巨大《おおき》な山脈の一端《はな》らしい黒い山影の中腹に、ほのぼのと匂っているのであった……ほほえみかけるように……吸い寄せるように……。
 虎蔵はブルッと一つ身震いをした。口の中でつぶやいた。
 ……まさか……手がまわっている合図じゃあんめえが……ハアテ……。

 虎蔵は一箇月ばかり前に、網走《あばしり》の監獄を破った五人組の一人であった。その中でも、ほかの四人は、それから一週間も経たないうちにバタバタと捕まってしまったので、今では全国の新聞の注意と、北海道の全当局の努力を、彼一人に集中させているのであった。
 そればかりでない。
 虎蔵の強盗時代の仕事ぶりは「ハヤテの虎」とか「カン虎」とかいう綽名《あだな》と一緒に、ズット以前から、世間の評判になっていた。
 綽名の通りカンの強い彼は、脅迫《おどし》のために人を傷《きずつ》ける場合でも、決して生命《いのち》を取るようなヘマをやらないのを一つの誇りにしていた。……のみならず彼は仕事をした界隈《かいわい》で、決して女にかからなかった。遥かの遠い地方に飛んで、絶対安全の見込みが付いた上でなければ、ドンナ事があっても酒と女を近付けなかった。そうして蓄積した不眠不休の精力とすばらしい溜《た》め喰《ぐ》いと、無敵の健脚を利用した逃走力でもって、到る処の警戒線を嘲弄《ちょうろう》し、面喰らわせるのを、一本|槍《やり》の逃走戦術にして来たものであった。
 だからその虎蔵が、久し振りにその筋の手にあがると間もなく、網走の監獄を破って逃走したという一事は、全国のセンセーションを捲き起すのに十分であった。況《いわ》んや、それが一箇月もの永い間、縛《ばく》に就《つ》かない事が一般に知れ渡ってしまった今日、結局……「虎蔵が北海道を出ないうちに捕まるか、捕まらないか」という問題が、全国の紙面に戦慄的な興味を渦巻かせているのは当然であった。
 そればかりでない。
 今度の脱獄後の彼は、どこまでも囚人服を着換えなかった。到る処で彼自身に相違ない事を名乗り上げながら仕事をして来た。そうした方が脅喝《きょうかつ》に有利であったばかりでなく、そこを目星にして集中して来るその筋の手配りを、引外《ひきはず》し引外し仕事をした方が、遥かに安全である事を幾度となく、事実上に証拠立てて来たものであった。
 ……俺は普通《ただ》の強盗とは違うんだぞ。そのうちにタッタ一つ大きな仕事をして、大威張りで北海道を脱け出すまでは、ケチな金や、ハシタ女《め》には眼もくれないんだぞ……。
 といったような彼一流のプライドを、そうした仕事ぶりの到る処に閃《ひら》めかして来たことは云うまでもない。
 ……とはいえ……虎蔵のこうした精力の鬱積が、今度の脱獄後に限って、異常な影響を彼の仕事振りに及ぼして来た事実だけは、流石《さすが》の虎蔵も自覚していなかった。それはその脱獄当時に、一人の老看守の頭を、彼自身の手でタタキ割った一|刹那《せつな》から来た、心境の変化であったかも知れない。又は四十を越した彼の体質から来た性格上の変化であったかも知れないが、いずれにしても今度の脱獄後の彼の手口は、まるで今までとは別人のように残虐な、無鉄砲なものに変形していた。
 彼は人跡絶えた北海道の原始林や処女林の中を、殆んど人間|業《わざ》とは思えない超速度で飛びまわりながら、時々、思いもかけぬ方向に姿を現わして、彼独特の奇怪な犯行を逞しくして来た。……酔い臥《ふ》しているアイヌの酋長《しゅうちょう》を、その家族たちの眼の前で絞殺して、秘蔵のマキリ(アイヌが熊狩りに用いる鋭利な短刀)一|挺《ちょう》と、数本の干魚《ほしうお》を奪い去った。……かと思うと、それから二三日のうちに、三十里も距たった新開農場の一軒家に押入って、ちょうど泣き出した嬰児《あかんぼ》の両足を掴むと、面白そうに笑いながら土壁にタタキ付けた。そうして若夫婦を威嚇《いかく》しいしい、悠々と大飯を平らげて立去った。……かと思うと、その兇行がまだ新聞に出ない翌日の白昼に、今度は十数里を飛んだ山越えの街道に現われて、二人の行商人に襲いかかった。若い二人の男が、仲よく笑い話をして行く背後《うしろ》から突然に躍りかかって一人を刺殺《さしころ》すと、残った一人を威嚇しながら、やはり二人の弁当の包みだけを奪って、又も悠々と山林に姿を消した。北海道のような深い山々では、内地のような山狩りが絶対に行われない事を、知って知り抜いているかのように悠々と……。
 ……虎蔵が人を殺した……しかも連続的に……そうしてまだ捕まらずにいる……という事実に対して、毎日毎日の新聞紙面が、如何《いか》に最大級の驚愕と戦慄を続けて来たか。全北海道の住民が、そうした脱獄囚の姿に毎夜毎夜どれほど魘《うな》されて来たか、そうして全道の警察の神経と血管が、連日連夜、どれ程の努力に疲れ果てて来たことか……。
 その中を脱《ぬ》けつ潜《くぐ》りつ虎蔵は、寒い寒い北海道の山の中を馳けまわる事一箇月あまり……とうとうどこがどうやら解からなくなったまま、人を殺しては飯を喰い、食料品《くいもの》を奪っては兇器を振廻わして来た。そうして真冬にならない内に、是が非でも何か一つの大仕事にぶつかるべく、突詰められた餓え狼のような気持ちで山又山を越えて来るうちに、タッタ今ヒョッコリと、どこかわからない大きな街道に出たと思う間もなく、思いがけない真向うの山蔭に、今まで見た事もない美しい、赤い光りを発見したのであった。何となく神秘的な……不可思議な……たまらなくなつかしいような……。

 虎蔵は面喰らった上にもめんくらった。幾度も幾度も眼を擦《こす》った。何故《なにゆえ》ともなく胸の躍るのを感じながら、左右に白々と横たわっている闇夜の街道を見まわした。自分で自分に云い聞かせるようにつぶやいた。
「……まさか……俺を威《おど》かすつもりじゃあんめえが……ハアテナ……」
 虎蔵はやがて両腕を組んだまま、その光りに吸い寄せられるようにスタスタと歩き出していた。深夜の草山を押し分けて、一直線に赤い光りの方向へ近付いて行くと、そのうちに虎蔵の眼の前の闇の中に、要塞のように仄《ほの》黄色い、西洋館造りの大邸宅が浮かみ現われて来た。
 赤い光りは、その大邸宅の右の端にタッタ一つ建っている、屋根の尖《と》んがった、奇妙な恰好の二階の窓から洩れて来るのであった。そのほかに燈光《あかり》の洩れている部屋は一つもないらしく、さしもの大邸宅が隅から隅まで死んだように寝静まっている事が、間もなく彼の第六感にシミジミと感じられて来た。
 虎蔵はモウ一度、前後左右を見まわした。
「……フフン……コイツは案外、大仕事かも知れんぞ……」
 とつぶやきながら微《ひそ》かに胸を躍らした。本能的に用心深い足取りで、高い混凝土塀《コンクリートべい》を半まわりして、裏手の突角《とっかく》の処まで来た。そうして矢張り本能的に懐中のマキリを鞘《さや》から抜き出して、歯の間にガッチリと啣《くわ》えた。その突角を両手と両膝の間に挟んでジリジリと上の方へ登り初めた。気が遠くなる程の空腹を感じながら……。
 一|丈《じょう》ばかりの高い混凝土塀を越えると、内部《なか》は広い花壇になっているらしい。何だかわからない秋の草花が闇の中に行儀よく列を作って、一パイに露を含んでいる中を、マキリを啣えた囚人姿の虎蔵が、ヒソヒソと匐《は》い進んで行くのであったが、そのうちに闇夜の草花の水っぽい、清新な芳香《におい》が、生娘《きむすめ》の体臭のように、彼の空腹に泓《し》み透って来た。白々とした女の首や、手足や、唇や、腹部の幻像を、真暗な彼の眼の前に、千切れ千切れに渦巻かせながら、全身が粟立《あわだ》って、クラクラと発狂しそうになるまで、彼の盲情をソソリ立てるのであった。彼は暫くの間、唇を噛んで、ベコニヤの鉢の間にヒレ伏していた。
 ……助けてくれ……。
 と叫び出したいような気持ちを、ジッと我慢しながら……そうしてヤットの思いで気分を取り直すと、虎蔵はイヨイヨ静かにベコニヤの鉢の間を抜けて、綺麗に刈り込んだ芝生の上に匐い上った。
 眼ざす二階家は直ぐ眼の前に在った。
 彼は極度に冷静になった。同時にたまらない程、残忍になった。容易ならぬ荒療治に引っかかりそうな予感と、世にも不思議な赤い光りに対する緊張が、彼の全身を空気のように軽くした。

 彼の眼の前には、白っぽい石の外廊下の支柱が並んでいて、その行き止まりが、やはり白い石の外階段になっている。その中央に続きに敷かれた棕梠《しゅろ》のマットの上を、猫のように緊張しながら匐い登って行くと、すぐに一つの頑丈な扉《と》に行き当った。
 その扉を見上げ、見下しているうちに虎蔵は又も、ドキンドキンとさせられた。
 それは虎蔵が今日《こんにち》まで幾度となく、あこがれ望んでいながら、一度も行当《ぶつか》った記憶《おぼえ》のない種類の扉であった。その内側に巨万の富を蔵《しま》い込んでいるらしい……黒い……重たい……マン丸く光る黄金色の鋲《びょう》を縦横に打ち並べた……ただその扉が普通と違うところは、その把手《ハンドル》が少し低目に取付けてある事と、鍵穴らしいものがどこにも見当らない事であった。
 ……ハテナ……内側から堅固《じょうぶ》な閂《かんぬき》が突支《つっか》ってあるのかな……。
 そう気が付くと同時に虎蔵は、全身がシインとなるほど失望した。この扉《とびら》を破るのは容易でない……と考えたからであった。そうしてここまで、無意味に釣り寄せられて来た自分の冒険慾を、心の片隅で後悔し初めた。
 ……この扉《と》に触ると、直ぐに電気仕掛か何かで、ほかへ知らせるようになっているに違いない……。
 と思い思い虎蔵は、仄かな赤い光りに照らし出された花壇の片隅を、暫くの間、見下していた……が……それでも僅かに残った糸のような未練と、万一の場合の逃走力を空頼みにした彼は、彼の生涯の運命を賭ける気持で、扉の把手《ノッブ》を確《しっか》りと掴んだ。ソーッと右へ捻《ね》じってみた……。
 ……アッ……と声を挙げるところであった。電気に打たれたように階段を二三段飛び降りた。
 扉は何の締りもしてなかった。僅か
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