な力で把手《ノッブ》を捻じられた扉が、音もなく開くと、思いもかけぬ赤い光りの隙間が、彼の鼻の先に、縦に一直線に出来たのであった。
虎蔵はジリジリと首を縮めた。背中を丸くして膝を曲げた。息を殺して背後《うしろ》を見廻わした。どこからか怪しい物音が近付いて来はしまいかと、耳を澄まし、眼を凝《こ》らしながら身構えていたが、そのうちに薄黒いダンダラを作った花壇の向う側の暗黒を、白々と横切っている混凝土《コンクリート》塀に眼を止めると、彼は思わずニンガリと冷笑して首肯《うなず》いた。ゆるゆると背中を伸ばしながら、眼の前の赤い光りの隙間をかえりみた。
……ハハン……あの高土塀が在ると思って、安心してケツカルんだな……。
そう思い付くと同時に、虎蔵の全血管の中に新しい勇気が蘇って来た。深刻な空腹と、極度に緊張した冷血さが、彼の全身数百の筋肉に疼《うず》きみちみちて来た。それにつれて、
……これこそ俺の最後の大仕事かも知れないぞ……。
という強烈な職業意識が、スキ透るほどギリギリと、彼の奥歯に噛み締められて来た。
恐ろしいものが一つ一つに彼の周囲から消え失せて行った。
彼は生皮革《なまがわ》で巻いたマキリの※[#「木+霸」、第3水準1−86−28]《つか》をシッカリと握り直した。谷川の石で荒磨《あらとぎ》を掛けた反《そり》の強い白刃《しらは》を、自分の背中に押し廻しながら、左手で静かに扉を押した。
それは天井の高い、五|間《けん》四方ぐらいの部屋であった。幽雅な近代風のゴチック様式で、ゴブラン織の深紅《しんく》の窓掛を絞った高い窓が、四方の壁にシンカンと並んでいた。
その窓と窓の間の壁面《かべ》に、天井近くまで畳み上げられている夥《おびただ》しい棚という棚には、一面に、子供の人形が重なり合っているようである。和洋、男女、大小を問わず、裸体、半裸体、軽装、盛装の種類をつくして、世界中のあらゆる風俗を現わしているらしい抱き人形の一つ一つが皆、その大きく開いた眼で、あらぬ空間を眺めながら、この上もなく可愛らしい微笑を含んでいるようである。永遠に変らぬ空虚のイジラシサを競い合っているようである。
虎蔵は眼をパチパチさせた。瞼《まぶた》をゴシゴシとこすって瞳を定めた。
部屋の中央には土耳古《トルコ》更紗《さらさ》を蔽《おお》うた、巨大な丸|卓子《テーブル》が置いてある。その上には、さながらに、それ等の人形たちが遊び戯れた遺跡であるかのように、色々な食器、豆のような玩具、花籠《はなかご》、小さな犬、猫、鼠、猿、小鼠のたぐいが、殆んど数限りなく、行儀のいい円陣や、方陣を作って並んでいる。その間に静止している巨大な甲虫《かぶとむし》、華麗な蝶々、実物大の鳩、雛子《ひよっこ》、木兎《みみずく》……。
又、その丸|卓子《テーブル》の周囲には、路易《ルイ》王朝好みのお乳母《うば》車、華奢《きゃしゃ》な籐椅子《とういす》、花で飾った揺籠《クレードル》、カンガルー型のロッキングなぞが、メリー・ゴー・ラウンド式に排列されている……そんなもの一つ一つにも、それぞれ様々の微笑を含んだ人形が、ピエロ姿の行列を作ってブラ下がったり、振袖《ふりそで》姿で枕を並べたり、海水着のまま、魚のようにビックリした瞳《め》をして重なり合ったりしている。
その中央の高い、暗い、円《まる》天井から、淡紅《うすべに》色の絹布《きぬぎれ》に包まれた海月《くらげ》型のシャンデリヤが酸漿《ほおずき》のように吊り下っていたが、その絹地に柔らげられた、まぼろしのような光線が、部屋中の人形を、さながらに生きたお伽話《とぎばなし》のようにホノボノと、神秘めかしく照し出しているのであった。
虎蔵は、その光りを浴びたまま棒立ちになってしまった。鼻息さえもし得ないまま、そうした不可思議な光景を見まわしていた。
それは彼が夢にも予期していなかった光景であった。……否《いや》……彼が生れて初めて見る不可解な部屋であった。彼の頭脳《あたま》では到底、理解出来そうにない人形ばかりの小宇宙……この上もなく美しい桃色の微笑の世界……その神秘と、平和にみちみちた永遠の空虚の中に、偶然に……真に偶然に迷い込んでいる彼自身の野獣ソックリの姿……。
彼は気もちが変テコになって来た。頭がガランドウになって、今にも眼がまわりそうに胸が悪くなって来た。
彼はヨロヨロと背後《うしろ》によろめいた……が……又も、ひとりでに立止った。そうして彼自身の浅猿《あさま》しい姿を今更のように見まわしながら、何故《なにゆえ》ともわからない、長い長いふるえた溜息をしかけた。同時に、全身にビッショリと生汗《なまあせ》を掻いているのに気が付いたが、そのうちに又、フト気が付いて、見るともなく丸|卓子《テーブル》の向う側を見るとハッとした。頭の毛がザワザワと駈け出しかけて又止んだ。
丸|卓子《テーブル》の向うの仄《ほの》暗い右側には、黝《くろ》ずんだ古代|雛《びな》……又、左側には近代式の綺羅《きら》びやかな現代式のお姫様が、それぞれに赤い段々を作って飾り付けてある。その中央の特別に大きな、高い窓に近く、こればかりは本式らしい金モールと緋房《ひぶさ》を飾った紫緞子《むらさきどんす》の寝台が置いてあって、女王様のお寝間《ねま》じみた黄絹《きぎぬ》の帷帳《とばり》が、やはり金モールと緋房ずくめの四角い天蓋《てんがい》から、滝の水のように流れ落ちている。その蔭に仄見えている白絹らしい掛布団から、半分ほど握り締めた左手の手首が覗《のぞ》いている。……それが、どうやら七八ツばかりの、生きた女の児《こ》の手首に見えるのであった。
その無心な可愛らしい手首を見ているうちに虎蔵はやっと吾に帰った。同時に、生汗に冷え切った全身がゾクゾクとして来た。……この部屋の全体が含んでいる不可思議な意味と、この部屋の主人公の正体が、同時にわかって来たような気がしたので……。
虎蔵は自分でも気付かないうちに身を屈《かが》めていた。床の上の華麗《はなやか》な露西亜《ロシア》絨氈《じゅうたん》の上に腹匍《はらば》いになって、ソロソロとその寝台の脚下《あしもと》に忍び寄って行った。何故《なぜ》ともわからない焦燥を感じながら……。
……それはこの部屋の女主人公《ヒロイン》と思われる緞子《どんす》の寝台の主《ぬし》が、果して自分の推量通りに生きた女の児に相違ないか……それとも、やはり、ほかの人形と同様の飾り物に過ぎないかどうかを、是非とも一度たしかめてみたい……というような彼一流の無智な、盲目的な好奇心に、彼自身が囚《とら》われていたせいかも知れない。又は現在、極度に鋭敏になっている彼の嗅覚《きゅうかく》が、その寝台の方向からほのめいて来るチョコレートのような、牛乳のような、甘い甘い芳香《ほうこう》に誘われたせいであったかも知れないが……。
彼は丸|卓子《テーブル》の蔭を、寝台の一|間《けん》ばかり手前まで匍って来ると、ソ――ッと顔を上げてみた。思ったよりも薄暗い、寝台の中に瞳を凝らした。
彼は今更のように固唾《かたず》を嚥《の》んだ。
それは夥しい、美しい黄金色《こがねいろ》の渦巻毛《カール》を、大きな白麻《しろあさ》の西洋枕の上に横たえている西洋人の女の児であった。年頃はよくわからないが、恐らくこの部屋中のどの人形よりも端麗な、神々しい眼鼻立ちであったろう。額《ひたい》と鼻筋のすきとおった……眉の長い、睫《まつげ》の濃い、花びらのように頬を紅くした寝顔が、あどけなく開《あ》いた小さな唇から、キレイな乳歯をあらわしながら、こころもちこっち向きに傾いているのであった。
その枕元には萎《しお》れた秋草の花束と、二三冊の絵本と、明日《あす》のおめざ[#「おめざ」に傍点]らしい西洋菓子が二つ、白紙に包んで置いてあった。そうしてその寝台の裾《すそ》の床の上には、少女よりも心持ち大きいかと思われる棕梠《しゅろ》の毛製の熊が一匹、少女の眠りを守護《まも》るかのように、黒い、ビックリした瞳《め》を見開きながら、寝台に倚《よ》りかかって坐っているのであった。
……人形じゃねえぞ……これは……。
彼は息を殺して固くなった。
彼は脚下の熊とおなじように、両眼をマン丸く見開きながら、なおも一心に寝台の中を覗き込んだ。今にも眼の前の少女が大きな寝息をしそうに思われたので……そうしてパッチリと青い眼を見開いて、彼を見上げそうな気がしたので……。
部屋の中の何もかもが、彼の耳の中でシンカンと静まり返った。
少女の寝息とも……牛乳の香気《におい》とも……萎れた花の吐息《といき》ともつかぬ、なつかしい、甘ったるい匂いが、又もホノボノと黄絹の帷帳の中から迷い出して来た。
……突然……彼はブルブルと身震いをした。
この一箇月の間じゅう、彼の全身に渦巻き、みちみちて来たアラユル戦慄的なものが、その甘ったるい芳香《におい》の中で、一斉に喚《よ》び醒《さ》まされたのであった。その中からモウ一つ更に、極度の惨烈さにまで尖鋭化され、変態化され、猟奇化されて来た或るものが、トテモ抵抗出来そうにない、最後的の威力をもってモリモリと爆発しかけて来たのであった。
……コンナ機会《やま》は二度とねえんだぞ……しかも相手は毛唐《けとう》の娘じゃないか……構う事はねえ……やっつけろ……やっつけろ……。
と絶叫しながら……。
彼は今一度ブルブルと身震いをした。鮮やかな空色と、血紅色と、黒色の稜角《りょうかく》を、花型に織り出した露西亜絨氈の一角に、泥足のままスックリと立ち上った。右手に持ったマキリを赤い光線に透かしてみると、眼と口を真白く見開いて、声のない高笑いを笑いながら、おもむろに仄暗い丸天井を仰ぎ見た。
それはさながらに鉄の檻《おり》を出た狂人の表情であった。
彼は何の躊躇もなく悠々と寝台に近寄って、薄い黄絹を引き捲くった。白いレエスに包まれている少女の、透きとおった首筋の向う側に、イキナリ右手のマキリを差し廻わしながら、左手でソロソロと緞子の羽根布団をめくった。同時にモウ一度、彼独特の物凄い笑いを、顔面に痙攣《ひきつ》らせた。
「……エヘ……エヘ……声を立てる間《ま》はねえんだよ。ええかねお嬢さん。温柔《おとな》しく夢を見ているんだよ……ウフウフ……」
それから返り血を避けるべく、羽根布団を引き上げながら、すこしばかり身を背向けた。……すると……そうした気持ちにふさわしくそこいら中がモウ一度、彼の耳の中でシンカンとなった。
……その一刹那であった。
少女の枕元に当る大きな硝子《ガラス》窓の向うを、何かしら青白いものが、一直線にスウーと横切《よぎ》って行った。
彼はハッとしてその方向を見た。少女の首筋からマキリを遠ざけながら首を伸ばした。
……今まで気が付かなかったが、薄い黄絹の帷越《とばりご》しによく見ると、窓の外は一パイの星空であった。今の青白い直線は、その星の中の一つが飛び失せたものに相違なかった。それに連れて……やはり今まで気が付かなかった事であるが、どこか遠く遠くの海岸に打ち寄せるらしい深夜の潮の音が、微《かす》かに微かに硝子窓越しに聞えて来るのであった。それは、おおかた彼自身が、知らず知らずのうちに高い処へ来ていたせいであったろう……。
彼は緊張し切った態度のまま、その音に耳を澄ました。それから、やはりシッカリした身構えのうちに少女の寝顔と、右手のマキリを見比べた。
部屋の中に漾《ただよ》うている桃色の光りを白眼《にら》みまわした。
その光りが淀《よど》ませている薄赤い暗がりの四方八方から、彼に微笑《ほほえ》みかけている、あらゆる愛くるしい瞳《め》と、唇の一つ一つを念入りに眺めまわしているうちに、又もギックリと振り返って、窓の外の暗黒を凝視した。
……その時に又一つ……。
……ハッキリと星が飛んだ……。
……銀色の尾を細長く引いて……。
彼は愕然《がくぜん》となった。魘《おび》えたゴリラのように身構えをし直して、少女の顔を振り返っ
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