た。
 ……この深夜に……開放《あけはな》された部屋の中で……タッタ一人眠っている西洋人の娘……。
 ……物騒な北海道の山の中で、可愛い娘にコンナ事をさせている毛唐の大富豪《おおがねもち》……。
 ……これは人間の心か……。
 ……神様の心か……。
 そんなような超常識的な常識……犯罪者特有の低能な、ヒネクレた理智が、一時に彼の中に蘇ったのであった。白熱化した彼の慾情をみるみる氷点下に冷却し初めたのであった。云い知れぬ恐怖の旋風となって、彼の足の下から襲いかかったのであった。
 ……俺は……俺は現在《いま》、何かしらスバラシイ陥穽《おとしあな》の中に誘い込まれているのじゃないか……。
 ……コンナ大邸宅の中にタッタ一つ灯《とも》されている赤い灯《ひ》……。
 ……締りのない扉《と》……。
 ……数限りない人形の部屋……。
 ……その中にタッタ一人眠っている生きた人形のような美しい少女……。
 ……思いも付かない、おそろしい西洋人の係蹄《わな》……???……。
 彼の膝頭《ひざがしら》が我れ知らずガクガクと動いた。歯の根がカチカチと鳴り出した。ジリジリと後退《あとずさ》りをしながら、薄い黄絹のカアテンを、腫れ物に触るようにして潜《もぐ》り出た。一足飛びに大|卓子《テーブル》をめぐって部屋の外へ飛び出した。
 ハヤテのように石の階段を馳け降りて、外廊下から芝生の上に飛び出した。と、思った瞬間に、何かしら人間らしいものから片足を抄《すく》い上げられたと思うと、モンドリ打って芝生の上にタタキ付けられた。
 ……息が詰まったかと思う腰の痛さを、頭の中心まで泌《し》み渡らせながら彼は、咄嗟《とっさ》に半身を起してマキリを構えた。眼の前、一|間《けん》ばかり向うの闇の中に跼《うずく》まっている白い物体に対《むか》って身構えた。
 ……破滅……???……。
 と心の中で魘えながら……。
 しかし白いものは動かなかった。依然として外廊下の石柱の根元に跼《かが》まっているばかりでなく、その白い、フックリした固まりの各部分が、すこしずつユラユラと揺れ合っているのが、星明りに透かして見えるようである。それに連れて何ともいえない品のいい菊の花の芳香《におい》がスッキリと闇を透して、彼の周囲に慕い寄って来た。
 彼はマキリを取落した。……三度《みたび》、呆然《ぼうぜん》となった。
 何から何まで馬鹿にされ、オモチャにされつくしたまま、ミジメに投げ出されている彼自身を、ヒイヤリとした芝生の上に発見して、泣く事も、笑う事も出来ない気持ちになってしまった。極度にタタキ付けられた選手のように、スッカリ混乱してしまったまま……両脚を投げ出して、後手《うしろで》を突いたまま……腹立たしい菊の花の芳香《におい》を、いつまでもいつまでも呼吸していた。

 しかし、そのうちに彼はヤットの思いで立ち上った。手も力もなく蹌踉《よろめ》きながら、はだかった胸を掻き合わせて、露深い草の上に落ちたマキリを探し当てて、懐中《ふところ》の鞘《さや》に納めながら、花壇の方向へスタスタと立ち去ろうとした……が……又もピッタリと立佇《たちど》まって振り返った。石柱の下に静まり返っている白菊の鉢を見返りながら腕を組んで考え込んだ。混乱した頭を鎮《しず》めよう鎮めようと努力した。
 ……俺はここへ何をしに来たんだ。……そうして……このまま帰ったら俺は一体どうなるんか……。
 やがて彼は闇の中でガックリとうなずいた。
 忽ちツカツカと石柱の根元に歩み寄って、盛り上った白菊の鉢に両手をかけた。
「……エエ糞《くそ》……このまま帰ったら俺あ型なしになるんだぞ……畜生。どうするか見よれ」
 とイキミ声を出しながらジワジワと鉢を持ち上げかけた。
「俺が来た証拠だ……畜生……」
 それは疲れ切った、空腹の彼にとっては、実に容易ならぬ大事業であった。大の男が二人がかりでもどうかと思われる巨大な白菊の満開の鉢を、ヤットの思いで胸の上まで抱え上げるうちに、彼の全身は、新しい汗で水を浴びたようになった。その夜露と泥とで辷《すべ》り易くなった鉢の底を、生命《いのち》カラガラ肩の上に押し上げて、よろめく足を踏み締めながら、外廊下のマットの上を一歩一歩と階段に近づいて行った時に彼は、幾度も幾度も今度こそ……今度こそ気が遠くなって、引っくり返るのじゃないかと危ぶんだ。
 彼はそれから一歩一歩と、無限の地獄に陥《お》ち込むような怖ろしい思いを繰り返しながら、石の階段を登って行った。それから開け放されたままの扉《と》の中へ、中腰のままジリジリと歩み入って、向うの窓際まで一歩一歩と近づいて来ると、両足を力一パイ踏み締めて立ち佇《どま》った。
 彼は肩の上に喰い込んでいる菊の鉢を、そのまま、眠っている少女の頭部《あたま》めがけて投げ付けたい衝動を、ジット我慢しながらモウ一度、寝台の中を白眼《にら》み付けた。
 ……畜生……ブチ殺した方が面黒《おもくれ》えかも知れねえんだが……それじゃ俺の意地が通らねえ。タタキ付けて逃げ出したと思われちゃ詰まらねえかんな……畜生……。
 と唇を噛み締めながら考えた。
 彼は、それから更に、今までの苦しみに何層倍した、新しい苦しみに直面させられた。彼が、四十年の生涯のうちに一度も体験した事のない……髪の毛が一本一本に白髪《しらが》になってしまいそうな、危険極まる刹那刹那を、刻一刻に新しく新しく感じながら、死ぬ程重たい花と土の塊《かた》まりを、肩から胸へ……胸から床の上へソーッと抱え下した。アザヤカな淡紅色を帯びて、噎《む》せかえるほど深刻に匂う白い花ビラの大群を、静かに少女の枕元に置き直すと、ポキンポキンと音を立てる腰骨を一生懸命に伸ばしながら、長い長いふるえた溜め息を吐《つ》いた。そのまま、暫くの間、眼を閉じ、唇を噛んで、荒い鼻息を落ち付けていたが、そのうちに彼は思い出したように眼を見開いて、泥塗《どろま》みれになった両掌《りょうて》を、腰の荒縄の上にコスリ付けた。その掌《てのひら》で、鬚《ひげ》だらけの顔を撫で上げて汗を拭こうとした。
 しかし彼はモウ汗も出ないほど青褪《あおざ》め切っていた。
 その薄黒い、落ち窪んだ両眼は、老人のように白々と弱り込んで、唇が紙のように干乾《ひから》びていた。その額と頬は、僅かの間に生命《いのち》を削り取られたかのように蒼白く骨張って、力ない皺の波が、彫刻のようにコビリ付いていた。……が……そうした死人じみた片頬に、弱々しい、泣き笑いじみた表情をビクビクさせると、彼は仁王立《におうだ》ちに突立ったまま、鼻の先の空間に眼を据えた。
 咽喉《のど》の奥をゼイゼイと鳴らした。
「……オレは……オレは……ちっとも怖くないんだぞ……畜生。コレ位の事は平気なんだぞ……エヘ……エヘ……」
 そう云ううちに彼は力が尽きたらしくガックリと低頭《うなだ》れた。タッタ今、自分が成し遂げた最大、最高の仕事を、振り返り振り返り、懐中《ふところ》のマキリを押えながら、ヒョロヒョロと出て行った。
 彼の背後《うしろ》から静かに静かに閉まって行った重たい扉《とびら》が、忽ち、轟然《ごうぜん》たる大音響を立てて、深夜の大邸宅にどよめき渡りつつ消え失せた。

 ……あくる朝……。
 晴れ渡った晩秋の旭光《きょっこう》がウラウラと山懐《やまぶところ》の大邸宅を照し出すと、黄色い支柱を並べた外廊下に、白い人影が二つほど歩みあらわれた。
 それは白絹のパジャマを着流した、若い、洋髪の日本婦人と、やはり純白のタオル寝巻を纏《まと》うた四ツか五ツ位の、お合羽《かっぱ》さんの女の児《こ》が並んで、むつまじそうに手を引き合った姿であった。
 若い洋髪の女性は、片手で寝乱れた髪を撫で上げながらも、こうした大邸宅にふさわしい気品のうちにユックリユックリと白|羅紗《らしゃ》のスリッパを運んで来たが、やがて棕櫚《しゅろ》のマットの中央まで来ると、すこし寒くなったらしく、襟元《えりもと》を引き合わせて立ち止まった。
 すると、その時に、お合羽さんの女の児が、つながり合った手を無邪気に引離しながらチョコチョコ走りに廊下を伝わって、真綿《まわた》の白靴をひるがえしひるがえし石の段々を一つ一つに登って行った。そうしてサモサモ嬉しそうに扉《ドア》の把手《ノッブ》を押しながら、内側へ消え込んで行ったが、やがて間もなく、眼をマン丸にして重たい扉《と》を引き開くと、一散に階段を馳け降りて来た。
 若い女性は、それを見迎えながら微笑した。
「……まあ……あぶない……ゆっくりオンリしていらっしゃい」
 しかし女の児は聴かなかった。
 可愛いお合羽さんを左右に振りながら、若い女性のパジャマの裾《すそ》に縋《すが》り付いた。
「……いいえ……お母チャマ大変よ……アノネ……アノネ……アタチ……アノお人形のお姫《ひい》チャマのおめざ[#「おめざ」に傍点]を、いただきに行ったのよ……ソウチタラネ……」
 と云いさして女の児は息を切らした。
「ホホホ……チュウチュが引いていたのですか」
 女の児は一層眼を丸くして頭を振った。
「……イイエ。お母チャマ……ソウチタラネ……お部屋の中が泥ダラケなのよ……」
「……エ……」
 若い女性は顔の色をなくした。女の児の顔をシゲシゲと見下した。
「……ソウチタラネ……アノお人形のお姫《ひい》チャマのお枕元に、大きい、白《ちろ》い菊の花が置いてあったのよ」
「……まあ……」
 といううちに若い女性は唇の色までなくしてしまった。その唇の近くで白い指先をわななかしながらすぐ傍の芝生の上に残っている輪形の鉢の痕跡《あと》を見まわしていたが、やがてオドオドした魘《おび》えたような眼付きで、階段の上を見上げた。
「……マア……昨夜《ゆうべ》まで……ここに在ったのに……誰がまあ……」
「イーエ……お母チャマ……アタチ知っててよ。ゆうべね。アタチ達が帰ってからね。アノお人形のお姫《ひい》チャマが、菊の花を見たいって仰言《おっしゃ》ったのよ」
 女性はすこしばかり血色を取り返した。
「……まあ……オホホ……」
「それでね……アノ御家来の熊さんが、持って行って上げたのよ……キット……」
「……ネ……ソウデチョ……お母チャマ……」
「……………」



底本:「夢野久作全集3」ちくま文庫、筑摩書房
   1992(平成4)年8月24日第1刷発行
入力:柴田卓治
校正:kazuishi
2000年10月25日公開
2006年3月9日修正
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