白菊
夢野久作

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)虎蔵《とらぞう》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一本|槍《やり》の逃走戦術に

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「木+霸」、第3水準1−86−28]《つか》
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 脱獄囚の虎蔵《とらぞう》は、深夜の街道の中央《まんなか》に立ち悚《すく》んだ。
 黒血だらけの引っ掻き傷と、泥と、ホコリに塗《ま》みれた素跣足《すはだし》の上に、背縫《せぬい》の開いた囚人服を引っかけて、太い、新しい荒縄をグルグルと胸の上まで巻き立てている彼の姿を見たら、大抵の者が震え上がったであろう。毬栗頭《いがぐりあたま》を包んだ破れ手拭《てぬぐい》の上には、冴《さ》え返った晩秋の星座が、ゆるやかに廻転していた。
 虎蔵はそのまま身動き一つしないで、遥か向うの山蔭に光っている赤いものを凝視していた。その真白く剥き出した両眼と、ガックリ開《あ》いた鬚《ひげ》だらけの下顎《したあご》に、云い知れぬ驚愕《きょうがく》と恐怖を凝固させたまま……。
 それは虎蔵が生れて初めて見るような美しい、赤い光りであった。それは彼が永いこと飢え、憧憬《あこが》れて来たチャブ屋の赤い光りとは全然違った赤さであった。又、彼が時々刻々に警戒して来た駐在所や、鉄道線路の赤ラムプの色とも違っていた。ネオンサインの赤よりもズット上品に、花火の赤玉よりもズットなごやかな、綺麗なものであった。……といって閨房《けいぼう》の灯《あかり》らしい艶媚《なまめか》しさも、ほのめいていない……夢のように淡い、処女のように人なつかしげな、桃色のマン丸い光明《こうみょう》が、巨大《おおき》な山脈の一端《はな》らしい黒い山影の中腹に、ほのぼのと匂っているのであった……ほほえみかけるように……吸い寄せるように……。
 虎蔵はブルッと一つ身震いをした。口の中でつぶやいた。
 ……まさか……手がまわっている合図じゃあんめえが……ハアテ……。

 虎蔵は一箇月ばかり前に、網走《あばしり》の監獄を破った五人組の一人であった。その中でも、ほかの四人は、それから一週間も経たないうちにバタバタと捕まってしまったので、今では全国の新聞の注意と、北海道の全当局
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