。二月がほど日を送り、早くも梅雨上りの若芽萌え立つ今日の日はめぐり来りぬ。
さる程にわれ、今朝の昧爽《まだき》より心地何となく清々《すが/\》しきを覚えつ。小暗《をぐら》きまゝに何心なく方丈の窓を押し開き見るに、思はず呀《あつ》と声を立てぬ。
此間馬十が植ゑ蒔きし梅の根方のくれなゐ[#「くれなゐ」に傍点]の種子、いつの間にか芽を吹きにけむ。窓の上の屋根に打ちかぶさるばかりに茂り広ごりたるが、去年《こぞ》の春見しが如き、血の色せる深紅の花は一枝も咲き居らず。屍肉の如く青白き花のみ今を盛りと咲き揃ひ居りしこそ不思議なりしか。
此時のわが驚き、いか計《ばか》りなりけむ。彼《か》の馬十が末期に叫びし言の葉を眼の前に思ひ知りて、白日の下、寒毛竦立《かんまうしようりつ》し、心気打ち絶えなむ計《ばか》りなりしか。
さてこそ人の怨みは此世に残るものよ。神も仏もましますものよと思へばいとゞ空恐ろしく、思はず本堂によろめき入りて御本尊の前に両手を合はせ。何事のおはしますかは知らず。申訳無く面目無し。かしこき天地の深く大なる心を凡夫の身勝手にて推《お》し計《はか》りしことのおぞましさよ。此上に生き
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