、又は明日《あす》をも計り知られぬ身の行末の事など、跡かたもなく忘れ果てゝ此寺に留まり、和尚の心のまゝに身を任せつゝ、世にも不思議なる年月を送り侍りぬ。
又、彼《か》の馬十と呼べる下男は此処より十里ばかり東の方、豊前小倉城下の百姓にて、宮|角力《ずまふ》の大関を取り、無双の暴れ者なりし由。仲間の出入りにて生命《いのち》危ふかりしを万豪和尚に救はれしものに侍り。和尚の与へし切支丹煙草、唖妣烟《オヒエム》を吸ひしより以来《このかた》、魂|虚洞呂《うとろ》の如くなりて心獣の如く、行ひ白痴の如し。たゞ/\牛馬の如く和尚の命に従ひて、此寺の活計《なりはひ》、走使《はしりづか》ひなぞを一心に引受け居り候ひし者。その後、妾、此寺に来りし後は、何となく妾を慕ひ居るげにて、和尚の言葉よりも、わが云ひ付けをのみ喜び尊み、事あれば水火をも辞せざる体《てい》に侍り。まことに不憫の者と存じ候へ。
さる程に妾、虫の知らせにかありけむ。今朝《けさ》は、いつにも似ず早く眼醒めつ。御身の此寺に近付き給へるを垣間見《かいまみ》、如何はせむと思ひ惑ひ候ひしが、所詮、人間道を外れし此身。神も仏も此世には在《ま》しまさずか
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