昇りて半《なかば》眠れるが如き景色なり。
 扨《さて》は人家ありけるよと打喜び、山|岨《そば》の道なき処を転ぶが如く走り降り、やゝ黄ばみたる麦畑を迂回《まは》りつゝ近付き見るに、これなむ一宇の寺院にして、山門は無けれど杉森の蔭に鐘楼あり。前庭の洒掃《さいさう》浄らかにして一草一石を止めず。雨戸を固く鎖《とざ》したる本堂の扁額には霊鷲山《りやうじゆさん》、舎利蔵寺《しやりざうじ》と大師様の達筆にて草書したり。方丈の方へ廻り行くに泉石の按配、尋常《よのつね》ならず。総|檜《ひのき》の木口|数寄《すき》を凝《こ》らし、犬黄楊《いぬつげ》の籬《まがき》の裡《うち》、自然石の手水鉢《てうづばち》あり。筧《かけひ》の水に苔|蒸《む》したるとほり新しき手拭を吊したるなぞ、かゝる山中の風情とも覚えず。又、方丈の側面の小庭に古木の梅あり。その形豆に似て、真紅の花を着けたる蔓草、枝々より梢まで一面に絡み付きて方丈の屋根に及べるが、流石《さすが》に山里の風情を示せるのみ。
 われ此等《これら》の風情を見て何となく不審に堪へず。一めぐりして庫裡《くり》の辺《ほとり》より、又も前庭に出で行かむとする時、今の籬の
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