業を重ね、恐ろしき欺罔《ゲレン》の魔道に迷ひ入り、殺生《せつしやう》に増《まさ》る邪道に陥り行くうち、人の怨みの恐ろしさを思ひ知りて、われと、わが身を亡ぼしをはんぬ。その末期《まつご》の思ひに、われとわが罪を露《あら》はし、思ふ事包まず書残して後の世の戒めとなし、罪障懺悔のよすがともなさむとて、かくなむ。
父母の御名は許し給ひねかし。
われは肥前唐津の者。門地高き家の三男にて綽名を片面鬼三郎となん呼ばれたる者也。
後陽成天皇の慶長十三年三月生る。寛永六年の今年五月に死するなれば足かけ二十五年の一生涯なり。
わが事を賞むるも愚かしけれど、われ生得みめ容《かたち》、此上《こよ》なく美はしかりしとなり。されども乳母の粗忽とか聞きぬ。三歳の時、囲炉《ゐろり》に落ちしとかにて、右の半面焼け爛《たゞ》れ、偏《ひと》へに土塊《つちくれ》の如く、眉千切れ絶え、眥《まなじり》白く出で、唇、狼の如く釣り歪みて、鬼とや見えむ。獣とか見む。われと鏡を見て打ち戦《をのゝ》くばかりなり。
されば名は体を顕《あら》はし、姿は心を写すとかや。われ生ひ立つに連れて、ひがみ強く、言葉に怨みあり。われながら、わが心の行末を知らず。両親に疎まれ、他人にあなづられて、心の僻《ひが》み愈々|増《まさ》り募《つの》るのみなりしが、たゞ学問と、武芸の道のみは人並外れて出精し、藩内の若侍にして、わが右に出づる者無し。もとより柔弱なる兄等二人の及ぶ処に非ず。一年《ひとゝせ》、御城内の武道試合に十人を抜きて、君侯の御佩刀《みはかせ》、直江志津《なほえしづ》の大小を拝領し、鬼三郎の名いよ/\藩内に振ひ輝きぬ。
さる程に此事を伝へ聞きし人々、おのづから、われに諛《へつら》ひ寄り来るさへをかしきに、程なく藩の月番家老よりお召出《めしだし》あり。武芸学問、出精抜群の段御賞美あり。年頃ともならば別地を知行し賜はるべし。永く忠勤を抽《ぬき》ん出《づ》可き御沙汰を賜はりしこそ笑止なりしか。
もとより、われは一握り程の碌米《ろくまい》の為に、忠勤を抽出《ぬきんで》んとて武芸、学問を出精せるに非ず。半面鬼相にもあれ、何にもあれ。美しき女を数多《あまた》侍らせ、金殿玉楼に栄燿の夢を見つくさむ事、偏《ひと》へにわが学問と武芸にこそよれ。容貌《おもて》、醜しとあれば疎み遠ざかり、あざみ笑ひ、少しの手柄あれば俄かに慈《いつく》し
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