。二月がほど日を送り、早くも梅雨上りの若芽萌え立つ今日の日はめぐり来りぬ。
さる程にわれ、今朝の昧爽《まだき》より心地何となく清々《すが/\》しきを覚えつ。小暗《をぐら》きまゝに何心なく方丈の窓を押し開き見るに、思はず呀《あつ》と声を立てぬ。
此間馬十が植ゑ蒔きし梅の根方のくれなゐ[#「くれなゐ」に傍点]の種子、いつの間にか芽を吹きにけむ。窓の上の屋根に打ちかぶさるばかりに茂り広ごりたるが、去年《こぞ》の春見しが如き、血の色せる深紅の花は一枝も咲き居らず。屍肉の如く青白き花のみ今を盛りと咲き揃ひ居りしこそ不思議なりしか。
此時のわが驚き、いか計《ばか》りなりけむ。彼《か》の馬十が末期に叫びし言の葉を眼の前に思ひ知りて、白日の下、寒毛竦立《かんまうしようりつ》し、心気打ち絶えなむ計《ばか》りなりしか。
さてこそ人の怨みは此世に残るものよ。神も仏もましますものよと思へばいとゞ空恐ろしく、思はず本堂によろめき入りて御本尊の前に両手を合はせ。何事のおはしますかは知らず。申訳無く面目無し。かしこき天地の深く大なる心を凡夫の身勝手にて推《お》し計《はか》りしことのおぞましさよ。此上に生き長らへて罪業を重ねむより、死して地獄の苛責に陥《お》ち、今までの罪の報いを受けむこそ中々に心安けれ。一念《いちねん》弥陀仏《みだぶつ》、即滅《そくめつ》無量《むりやう》罪障《ざいしやう》と聞けど、わが如き極重悪人の罪を救はれざらむ事、もとより覚悟の前ぞかし。南無《なむ》摩里阿《マリア》如来《によらい》。南無摩里阿如来と両手を合はせて打泣き/\方丈に帰り来りつ。さて流るゝ涙を堰《せ》きあへず。迫り来る心を押し鎮めて此文を認《したゝ》め終りぬ。
われ今より彼《か》の窖《あなぐら》に炭俵を詰めて火を放ち、割腹してそが中に飛入り、寺と共に焼け失せて永く邪宗の門跡を絶たむとす。たゞ此の文と直江志津の一刀のみは鐘楼の鐘の下に伏せ置き、後日の証拠《あかし》とし、世の疑ひを解かむ便《よすが》とせむ心算《つもり》なり。
なほ刀の中心《なかご》に刻みし歌は、わが詠みしものを下の村の鍬鍛冶《くはかぢ》に賃して刻ませしもの也。唐津藩に齎《もた》らし賜はらば藩公の御喜びあるべく、此文の偽《いつはり》ならざる旨も亦明らかなるべしと思ひ計《はか》りてなせし事なり。歌の拙《つた》なきを笑ひ給ふ事なかれ。
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