る半日の暮れつ方まで、われは只管《ひたすら》に恍惚として夢の中なる夢の醒めたる心地となり、何事も手に附かず、夕餉《ゆふげ》の支度するも倦《ものう》く、方丈の中央《まんなか》に仰向《あふの》きに寝《い》ね伸びて、眠るともなく醒むるとも無くて在りしが、扨《さて》、夜に入りて雨の音しめやかに、谷川の水音|弥増《いやまさ》るを聞くに付け、世にも不思議なる身の運命、やう/\に思ひ出でられつ。床に入りても眼《まなこ》、冴え/″\として眠むられず。
眠むられぬまゝに思ふやう。神も仏も在《ま》しまさぬ此世に善悪のけぢめ求むべき様なし。たゞ現世の快楽《けらく》のみこそ真実ならめ。人の怨み、誹《そし》りなぞ、たゞ過ぎ行く風の如く、漂ふ波にかも似たり。人間万事あとかたも無きものとこそ思ひ悟りて、腕にまかせ、心に任せて思はぬ快楽《けらく》を重ね来りしわれなりしか。その行末の楽しみの相手なりし者を討ち果したらむ今は、わが身に添ひたる、もろ/\の大千世界を打ち消して涯てしも無き虚空に、さまよひ出でし心地しつ。明日よりは何を張合《はりあひ》に生きむと思へば、世にも哀れなるわが姿の、今更のやうに面影に立つさへ可笑し。
やよ鬼三郎よ。明日より何方《いづかた》へ行かむとするぞ。汝が魂、何処《いづこ》にか在る。今までの生涯は夢なりしか。現《うつゝ》なりしか。まこと人の心に神も仏も無きものか。人の怨み、わが身の罪業を思ひ知りて神仏の御手に縋《すが》らむと思はずや。天地の大を以て見れば、さしも強豪、無敵の鬼三郎も多寡《たか》の知れたる一匹の蛆虫《うじむし》。何処《いづこ》より蠢《うご》めき来り。何処《いづこ》へ蠢めき去らむとするぞ。やよ鬼三郎。何処《いづこ》へ行くぞと。大声にて叫ぶ声、われとわが耳に入りて夢醒むれば、何時《いつ》の間にかまどろみけむ。夜は白々と明け離れて、向山《むこやま》の杉の梢に鴉の啼く声|頻《しき》り也。
われは、それより力無く起き上り、本堂下の窖《あなぐら》に入りて、男女の屍体を数段に斬り刻み、裏山の雑木林の彼処《かしこ》此処《こゝ》に埋め終りつ。さて残りたる米を粥に作りて何の味《あじは》ひも無く腹を満たし、梅干、塩、味噌なぞを嘗めながら、日もすがら為す事も無く方丈に閉《た》て籠もり、前の和尚の使ひ残したる罫紙を綴ぢ、今までの事を斯様《かやう》に書き綴り行く程に思ひの外に筆進まず
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