ともなるべきぞや。去年の春、此処《こゝ》へ迷ひ来給ひし時、見知り給ひしなるべし。毎年の事なり。暫く辛棒し給へ。臭くとも他人の垂れしものには非《あら》ざるべしと云ふ。扨《さて》は彼《か》の時の珍花の種子を此《この》男の取置きしものなりしかと思ひけれども、何とやらむ云ひ負けたる気はひにて心納まらず。小賢《こざか》しき口返答する下郎かな。腹の足しにもならぬ花の種子を蒔きて無用の骨を折らむより此《この》間、申し付けし庫裡《くり》の流し先を掃除せずや。飯粒、茶粕の類《たぐ》ひ淀み滞《とゞこほ》りて日盛りの臭き事|一方《ひとかた》ならず。半月も前に申付けし事を今以て果さぬは如何《いか》なる所存にか。主人に向ひて口答へする奴。その分には差し置かぬぞと睨《ね》め付くれば、彼《か》の馬十首を縮めて阿呆の如く舌を出し。われはお奈美様をこそ主人とも慕ひ、女神様とも仰ぎ来つれ。御身の如き片輪《かたは》風情の迷ひ猫を何条《なんでう》主人と思はむや。御身が此の馬十を憎み、疑ひ咀《のろ》へる事を、われ早くより察し居れり。打ち果さむとならば打ち果し給へ。万豪和尚様の御情にて生き伸び来りし此の生命《いのち》。何の惜しむ処かあらむ。たゞ後にて後悔し給はむのみと初めて吐きし雑言《ざふごん》に今は得堪へず。床の間の錫杖取る手も遅く直江志津を抜き放ち、縁側より飛び降りむとせしに、背後の庫裡の方よりあれよとばかり、手を濡らしたる奈美女走り出で、逸早《いちはや》くわれを遮り止めつ。涙を流して云ひけるやう。こは乱心し給へるか。馬十亡き後、如何にしてわれ等が命を繋《つな》ぎ候べき。御身此頃、俄かに心弱り給へるは、左様の由無き事ども思ひ続け給へる故ぞかし。人を斬り度くば峠々に出でゝ旅人をも待ち給へかし。馬十ばかりは此寺の宝物なり。われ等が為には無二の忠臣に候はずや。身に代へて斬らせ参らする事あらじと云ふうちに、馬十と怪しげなる眼交《めくば》せして左右に別れ、われ一人を方丈に残して立去りぬ。
さて其の後、二人とも何処《いづこ》にか行きけむ。声も無く、足音もきこえず。半刻《はんとき》あまりの間、寺内、森閑として物音一つせず。谷々に啼く山鶯の声のみ長閑《のどか》なり。
わが疑心又もや群り起り、嫉妬の心、火の如くなりて今は得堪へず。錫杖の仕込刀《しこみ》を左手《ゆんで》に提げて足音秘めやかに方丈を忍び出で、二人を求めて跣
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