《いづこ》より手に入れ来るやらむ和蘭《オランダ》の古酒なんどを汗みづくとなりて背負ひ帰るなんど、その忠実々々《まめ/\》しさ。身体の究竟《くつきやう》さ。まことに奈美女の為ならば生命《いのち》も棄て兼ねまじき気色なり。
 さはさりながら奇怪千万にも馬十は、われを主人とは思ひ居らざるにやあらんずらん。わが云ひ付けし事は中々に承《う》け引かず。わが折入つて頼み入る事も、平然と冷笑《あざわら》ふのみにして、捗々《はか/″\》しき返答すら得せず。奈美女の言葉添なければ動かむともせざる態《さま》なり。われ其の都度に怒気、心頭に発し、討ち捨て呉れむと戒刀《かいたう》を引寄せし事も度々なりしが、さるにても彼を失ひし後の山寺の不自由さを思ひめぐらして辛くも思ひ止まる事なりけり。
 然るに此の山寺に来てやゝ一年目の今年の三月に入り、わが気力の著じるく衰へ来りしより以来《このかた》、彼の馬十の顔を見る毎に、怪しく疑ひ深き瞋恚《しんに》の心、しきりに燃え立ちさかりて今は斯様《かう》よと片膝立つる事|屡々《しば/\》なり。後は何ともならばなれ。わが気力の衰へたるは、此《この》程、久しく人を斬らざる故にやあらんずらん。さらば此《この》男の血を見たらむには、わが気力も昔に帰りてむかなぞ、日毎に思ひめぐらし行くうちに此の三月の中半《なかば》の或る日の事なりき。
 頬冠りしたる彼《か》の馬十、鍬を荷《かつ》ぎてわが居る方丈の背面《うしろ》に来り、彼《か》の梅の古木の根方を丸く輪形に耕して、豆のやうなる種子を蒔き居り。その上より下肥《しもごえ》を撒きかけて土を覆ひまはるに、その臭き事限りなく、その仕事の手間取る事、何時《いつ》果つべしとも思はれず。
 われ思はず方丈の窓を引き開きて言葉鋭く、何事をするぞと問ひ詰《なじ》りしに、馬十かたの如く振り返り、愚かしき眼付にてわれを見つめつゝ、もや/\と嘲《あざ》み笑ふのみ。頓《とみ》には応《いら》へもせず。やがて不興気なる面《おも》もちにて黄色なる歯を剥き出し、低き鼻尻に皺を刻みつ。這《こ》は和蘭陀《オランダ》伝来のくれなゐ[#「くれなゐ」に傍点]の花の種子を蒔くなり。此等《これら》の秘蔵の種子《たね》にして奈美殿の此上《こよ》なく好み給ふ花なり。此《この》村の名主の家のほか他所《よそ》には絶えて在る事無し。此処《こゝ》に蒔き置けば、夏の西日を覆ひ、庭の風情
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