昇りて半《なかば》眠れるが如き景色なり。
扨《さて》は人家ありけるよと打喜び、山|岨《そば》の道なき処を転ぶが如く走り降り、やゝ黄ばみたる麦畑を迂回《まは》りつゝ近付き見るに、これなむ一宇の寺院にして、山門は無けれど杉森の蔭に鐘楼あり。前庭の洒掃《さいさう》浄らかにして一草一石を止めず。雨戸を固く鎖《とざ》したる本堂の扁額には霊鷲山《りやうじゆさん》、舎利蔵寺《しやりざうじ》と大師様の達筆にて草書したり。方丈の方へ廻り行くに泉石の按配、尋常《よのつね》ならず。総|檜《ひのき》の木口|数寄《すき》を凝《こ》らし、犬黄楊《いぬつげ》の籬《まがき》の裡《うち》、自然石の手水鉢《てうづばち》あり。筧《かけひ》の水に苔|蒸《む》したるとほり新しき手拭を吊したるなぞ、かゝる山中の風情とも覚えず。又、方丈の側面の小庭に古木の梅あり。その形豆に似て、真紅の花を着けたる蔓草、枝々より梢まで一面に絡み付きて方丈の屋根に及べるが、流石《さすが》に山里の風情を示せるのみ。
われ此等《これら》の風情を見て何となく不審に堪へず。一めぐりして庫裡《くり》の辺《ほとり》より、又も前庭に出で行かむとする時、今の籬の裡《うち》なる手水鉢の辺《あたり》に物音して人の出で来る気はひあり。此《この》寺の和尚にやあらん。如何なる風体の坊主にやと件《くだん》の蔓草の葉蔭より覗き見るに、出で来るものは和尚に非ず。籬《まがき》の隙間より洩れ来るは色白く、眉青く、前髪より水も滴らむばかりの色若衆の、衣紋《えもん》仇《あだ》めきたる寝巻姿なり。白魚の如き指をさしのべて筧の水を弄《もてあそ》ぶうちに、消ゆるが如く方丈に入り、内側より扉をさし固むる風情なり。
われ余りの事に呆れ果て、茫然と佇みて在りしが、物好きの心俄かに高まり来りて止み難くなりつ、何気なく前庭に出づるに、早くも起き出でし寺男と思《おぼ》しく、骨格逞ましく、全身に黥《いれずみ》したる中老人が竹箒を荷《かつ》ぎて本堂の前を浄め居り。
われ其《その》男に近づきて慇懃《いんぎん》に笠を傾け、これは是《こ》れ山路に踏み迷ひたる六部也。あはれ一飯の御情に預り、御本堂への御つとめ許し賜はらば格別の御|利益《りやく》たるべしと、念珠、殊勝|気《げ》に爪繰《つまぐ》りて頼み入りしに彼《か》の寺男、わが面体《めんてい》の爛れたるをつく/″\見て、まことの非人とや思ひけ
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