り、又は不合理、不調和に見えたものは、表現の裏の無表現でもって全体の緊張味を裏書きしたものであったりする事が折りに触れて理解されて来る。そうしてその無意味、もしくは不調和な表現ほど能らしい、高潮した表現に見えて来るので、能はここまで洗練されたものかと、屡々《しばしば》歎息させられる。
 欧米の近代芸術は単純、無意味、不調和、もしくは突飛な線や、面や、色彩を使って、人力で表現し得べからざるものを表現すべく試みているようであるが、そのような表現法も能は到る処に試みているので、寧ろ能楽の最も得意とするところである。
 とはいえ、斯様《かよう》にして洗練されて来た、舞、謡、囃子が、どんな風に集まり合って能を組み立てているか……という具体的の説明は依然として絶対に出来ないと思う。日本に生れて日本の詩歌伝説に共鳴し、日本語の光りと陰影に慣れ親しみ、八拍子の序破急に対する感覚を遺伝し、舞のリズムと打音楽の調和を喜び得る純日本人ですら、能を見物して唯よかったとか、悪かったとか云うだけで、何故という質問に答え得ない位だから――。
 能のわかるアタマは特殊のアタマとさえ考えられている位だから……。
 けれ
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