かも、それが何の意味も表情も成さぬもので、その原則の無味単調さ、到底西洋音楽の比ではない。表情や、模倣の変化が自由勝手に、無量無辺に許されているものとは比べものにならないくらい、一律簡単に定型的されている。
 謡の文句も似たようなものが多いが、節に到っては類型の多い事呆るるばかりで、少数の例を除いては各曲共に二三十の同型の節で満たされていると云っていい。
 舞の型も同様である。舞手の歩く道すじは十中八九まで舞台上の同じ線路《コース》で、その手ぶりも亦十中八九同じ定型である。装束、仮面等も同様で、大体に於て似たり寄ったりであるが、更にその脚色の類型と、進行の形式の各曲共に共通した点が多い事は、実に甚しいものがある。
 だから能を好まない人は、能は何遍見ても聞いても同じ事ばかりやっているように見える訳である。
 ところが、能を見慣れて来ると、この何等の変化もない定型的な演出の一ツ一ツ、一刹那一刹那に云い知れぬ表現の変化が重畳していることが理屈なしに首肯されて来る。能楽二百番――もしくは一曲の中に繰返される定型の、ドレ一つとして同一の表現をしていない事が、不言不語の中にわかって来る。そうして
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