の舞、謡、囃子の三大要素はどんな風に組み合わせられているか。その部分的要素である舞の手の一つ、謡の一節、囃子の一手は、全局とどんな表現的因果関係を持っているか……なぞいう事は、容易に説明が出来ないと思う。又、出来たと思っても結局一人呑込みになる虞《おそれ》があると思う。
それは何故か。
能の舞の型、節《ふし》、文句等には無意味なものが多い。皮相を見ると「ただ昔からそう伝えられているものを、そうやっているばかりである」という式のものが大部分を占めているかの観がある。又、能楽関係者も一般にそんな風に考えて、唯|無暗《むやみ》に習った手法をその通りに固守して、それを教えて飯を喰うのを本分と心得ている向きが多いらしい。筆者がここに書くような事を考えるのは「芸術の邪道」と考えているらしいので、そんなところから見ると「能」は伝統的な因襲一点張りなもので、昔の舞踊の残骸という評が相当の勢力を持っているのも無理はない。
笛は大部分定型的な呂律《りょりつ》を、定型的なタイムを踏んで繰り返すに過ぎぬ。大鼓も小鼓も、太鼓も四ツか三ツかの僅少な音の変化によって八、六、四、二の拍子を扱って行くに過ぎぬ。し
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