つ調和し変化して行く。
 舞い手は自分の仮面と装束とによって全局のリズムを支配しつつ、背後の監督に対して責任を負いつつ舞う。=註に曰《いわ》く=これは私だけの考えかも知れない。しかし能はかくあるべきものと思う。何故かと云うと、観客に対して責任を負う芸術は必ずや極めて堕落したものに違いないからで、結局、向う受け本位の芸術となるからである。芸術のための芸術として能が存在している以上、舞い手は観客の観賞眼を本位としてはならぬ。自分の芸の欠点を最も看破し易い位置に座っている監督の耳目に対して責任を負いつつ舞い謡うのが正直と思う。
 こう云って来ると、能の全局面で、観客に対して責任を負うている者は監督唯一人となる。しかもその演出が失敗した場合は全然監督の責任に帰するが、無事成功の場合は監督の手柄にはならない。唯楽屋に這入《はい》ってから、舞い手にお礼を云われるだけである。馬鹿馬鹿しい話であるが、能の真面目はそこに在ると思う。
 尚、前に述べたような間違いのない場合には監督の責任は極めて単純である。只常に緊張した注意を全局に払って居ればよい。そうして舞い手が扮装する場合、又は笠とか杖とか、刀とか扇
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