わしい舞い姿にまで、代を重ねて洗練されて来たのが、あの蝶の舞い型であると考えられる。
 鳥の歌も同様である。
 ある種類の鳥の唄う諧調は、全然無意味のまま、相似通っていて、春の日の麗らかさに調和し、駘蕩《たいとう》の気分を高潮さすべく、最もふさわしい諧調にまで、元始以来洗練され、遺伝されて来ている諧調の定型であるかのように思われる。
 そうしてその蝶の舞いぶり、鳥の唄いぶりが、人間のそれと比べて甚しく無意味であるだけそれだけ、春の日の心と調和し、且つその心を高潮させて行くものである事は皆人の直感するところであろう。
 人間の世界は有意味の世界である。大自然の無意味に対して、人間はする事なす事有意味でなければ承知しない。芸術でも、宗教でも、道徳でも、スポーツでも、遊戯でも、戦争でも、犯罪でも何でも……。
 能はこの有意味ずくめの世界から人間を誘い出して、無意味の舞と、謡と、囃子との世界の陶酔へ導くべく一切が出来上っている。そうしてその一曲の中でも一番無意味な笛の舞というものが、いつも最高の意味を持つ事になっている。勿論多少は、劇的の場面を最高としてあるものもあるが、大部分は笛の舞を中心としている。
 その曲の最もありふれた形式の一つを挙ぐれば、先ず日常生活に原因する悲劇的場面から初まって、その悲劇の主人公が次第に狂的、超人的な心理状態に入る。同時にその言、意味のある普通の文句から、次第に無意味な詩歌的気分と音調とを帯びて来る。その気分を数名の合唱隊が受けて謡う。それに連れて主人公が舞い出す。
 かようにして舞台面の気持はやがて散文も詩も通り越し、劇も身ぶりも、当て振りも、情緒や風趣をあらわす舞も、グングンと超越して、全然無意味な、気分も情緒も何もない、ただ、能としての最高潮の美をあらわす笛の舞に入る。その時に謡が美しく行き詰まりつつ消えて行く。
 この笛の舞は、よほど能の好きな人でもわからない退屈なものと見倣されている。それほど高い芸術価値を持っているものである。
 すなわち能は、まず現実世界の人間に、分り易い簡単な劇を選み出して見せる。そうして観衆の頭を引き付けておいて、その中から気分と意味とを取り交ぜた舞踊を抽出して見せる。それから最後に、無意味な、無気分な、只美しい、品のいい、音と形ばかりの、笛の舞の世界をあらわして最高の芸術愛好者を酔わせて了《しま》うのである
前へ 次へ
全39ページ中38ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング