ども、そもそも「舞」とか「謡」とか「囃子」とかいうものの本来の使命はどこに在るか……その本来の使命が「能」ではどんな風に果されつつあるか……という事に就いて、私一個人の無鉄砲な意見を述べる事は出来ようと思う。そうして、その意見を首肯……もしくは反対される人々が、各自の意見によりて能を考察されたならば、或は能をドン底から理解される事になりはしまいかと思う。私が説明し得ないところを氷解されはしまいかと思う。
 これは私が好んでする奇矯《ききょう》な論法ではない。
「能」は如何なる方向からでも玩味、批判され得る一個の人格だから……。
「能」はアトムから人間にまで進化して来て、更に又もとのアトムにまで洗練、純化されつつある綜合芸術だから……。

     定型の根本義

 舞い、謡い、囃《はや》すという事は人間最高の仕事である。
 人間文化が次第に向上して、一切の言葉が純化されて詩歌となって問答される。これに共鳴した人々が楽器で囃す。同時に人間の一切の起居動作が洗練されて舞となって舞うようになったならば、それは人類文化の最高のあらわれでなければならぬ。日本、支那、印度《インド》、西洋の各国に於ても、或る文化種族がその栄華を極めた時、即ちその文化的能力を極度に発揮した時、日常事にふれて詩歌を以て相語り、舞を以て仕事を行った時代があったそうである。
 又、かような事も考えられる。
 主観的に云えば蝶は蜜を求めて飛びまわっているのであろうが、人間の眼に映ずる蝶の生活は、春のひねもすを舞い明かし舞い暮しているとも考えられる。すくなくとも蝶が蜜を求めて飛びまわる姿は、その美しい翅《はね》と、変化に富んだ飛び方の曲節によって、春の風物気分とシックリ調和しているので「蝶は無意識に舞っている」と云えるであろう。
 その蝶の舞を今一層深く観察してみる。
 蝶のあの美しい姿は開闢《かいびゃく》以来、あらゆる進化の道程を経て、あの姿にまで洗練されて来たものである。同様にその飛びまわりつつ描く直線曲線が、全然無意味なままに相似ていて、バッタの一足飛びや、トンボの飛行機式なんぞとは比べものにならない程、美的なリズムに満ち満ちているところを見ると、蝶には他の翅虫たちよりも遥かに勝れた美意識があるように見える。そうしてその美意識によって春の野の花に調和し、春の日の麗《うら》らかさを高潮さすべく、最もふさ
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