ければ日本の芸術を語るに足らず」「キモノ、フジヤマ、ノウダンス」という傾向が高まって来た。中には自身で「能」を稽古して、西洋に帰ってから自国語で演出して見ようというような熱心家が出て来た。又は米国に行っている教授の世話で、在留邦人が年中行事として能を催す際に、米人のマダムや令嬢が囃方《はやしかた》を受け持つ事にきめている向きがあるという。殊にそんな婦人の中でも、日本人の男性でも掌の痛さと、気合いの烈しさに辟易《へきえき》する大鼓を引き受けている人が居ると聞くに到っては、感心を通り越して瞠若《どうじゃく》の到りである。
斯様《かよう》な調子で外国人の能楽研究が盛んになるに連れて、日本の芸術家は勿論、一般大衆が能に対して眼ざめて来た。ちょうど外人が日本の錦絵を賞讃して、その中に含まれている尖端的な芸術味を驚異玩味しつつ彼等の芸術に取り入れ初めて以来、日本の芸術家たちが足下から鳥が立ったように錦絵礼讃を初めたのと同一軌である。
こんな風潮がいい事か、わるい事かは別問題として、徳川時代に於ける錦絵画家の人知れぬ苦心は、かくして明治、大正、昭和の時代に於て酬いられつつある。同様に、足利時代以来五百年に亘って生れかわり死にかわりした代々の能楽師が、現在の能を完成するために費した底知れぬ苦心研鑽の努力は、今や漸《ようや》く酬いられむとしつつある。
私は無学な、お国自慢の一能楽ファンである。だから斯様に日本の芸術……特に能楽価値を認めて、日本人に指示してくれる外人諸氏に対して一も二もなく感謝の頭を下げるものである。
けれども、それと同時に、次のような放言をする事を許してもらいたい。
有《あ》り体《てい》に云うと前述の錦絵は日本所産の芸術作品の中でもかなりに俗受け専門の低級浅薄なものであるが、それでもその中に含まれている画家と、彫刻師と、印刷者の苦心は、外国一流の芸術家たちを刺戟して、新生面を打開させるだけの偉大深刻な尖鋭さをもっている。
だから、純乎たる芸術価値のみを目標として、五百年の長い間俗家に媚《こ》びず……換言すれば興行本位、金銭本位とせずに、代を重ねた名人達の手によって、洗練に洗練しつくされて来た能の表現の尖鋭さ、芸術的白熱度の高さは、到底錦絵の比でない事を、局外者と雖《いえど》も容易に想像し得るであろう……と。
能ぎらい
日本には「能ぎらい」
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