行こうとする。そうすると、その所作は次第に非現実なものになり、その扮装は自から舞台向きの特殊なものとなって来る。
 作者も同じ苦心をする。舞台の上で進行する事件を現実通りにゴチャゴチャさせたり、間延びにしたりする事は出来ない。その場面場面の印象は、出来るだけ重立った、上手な役者の所作、科白《せりふ》等によって強調させるようにしなければならぬ。その脚色と名付くる非現実な統制によって、初めて舞台上の出来事が、観客の頭に百パーセントの印象をあたえる事になる。
 けれども一方に、それが芝居である以上、全然現実から脱却する事は出来ない。ストーリーの面白味、背景、扮装の迫真、史実との一致なぞいう非芸術な要素を喜ぶ低級な観客や、低級な通人、批評家の勢力はいつの世にも絶えない。従て芝居は常住不断に舞台表現と、現実的な表現との中間に狭迷《さまよ》って行かねばならぬ。写実と非写実のチャンポンをやって行かねばならぬ。芝居芸術の悲哀はそこにある。
 この煩悶を一掃するものは、舞台仮面劇、もしくは舞台仮面舞踏である。そうして日本の能楽はこの両者を打って一丸として渾然徹底したものでなければならぬ。舞台と仮面、仮面と打音楽器は、切っても切れぬ芸術的因縁を以て、一如に結び付いているものである。
 吾人は希臘《ギリシャ》の仮面舞踊劇を今一度、モットモット深くかえりみる必要がある……。
[#ここで字下げ終わり]
 ……というような考察は、英国の極めて高等な芸術家たちの論議に散見しているところだそうである。
 その他、仏蘭西《フランス》人は直観的に能の表現の尖鋭さを推賞し、独逸《ドイツ》人は能楽のリズムを表現する間拍子が異常な発達を遂げているのに驚異して、これを科学的に分析研究しているという。
 その他、曰《いわ》く何、曰く何と色々な研究の話を聞いているが、外国語のわからない私には、直接に原書を読む事が出来ない。又訳書も無いらしいので、畢竟《ひっきょう》、噂の噂程度の引例にしかならないのを悲しむ。しかし、それでも、その研究や発表が上述の如く、能の根本義に触れている点は三嘆に価するので、日本人でもそんな風に能の根本精神に触れた考察をめぐらしているものはあまりあるまいと考えられる。
 外国の最高知識階級に属する人々の能楽研究熱がコンナ風に盛んになるに連れて、日本来遊の外人達の間に、「日本に来て能ダンスを見な
前へ 次へ
全39ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング