究が遂げられたものらしい。奈良や京都に在る古代の仮面を見てもわかる事で、頭からスッポリ冠ったり、顔半分を突込んだり、鼻や、眼玉や、口が動くようにしたり、そのほか様々の舞台効果を目標とした極端な表情の仮面が行われた。そのあげくヤット現在の中庸を取った無表情式のものが生まれた訳で、能が生まれたのも多分それと一緒ではなかったかと考えられる。
能の仮面は、そうした高潮した芸術的要素を含んだものだけに、昔の芸術家が精英を尽して、続々と製作したものらしい。その種類も初めは随分多かったらしいが、これも、能の曲目が減るのと同様の意味……すなわち能式の進化の途中で振い落されて、現在では全く用いられないものや、殆んど用いられぬものが、そのままに夥しく残っている。
その代り、或る種類のものは盛んに使用される。たとえば処女、年増、武者、若い男、爺、天狗なぞで、これはそんなものを仕組んだ曲が割合に多く残っているせいでもある。
装 束
現在の能の扮装を見た人は、到る処に思い切った時代錯誤や、身分錯誤? を発見して驚き呆《あき》れらるるであろう。
芝居ならば裸一貫であるべき漁師が、大臣と同じ袴《はかま》を穿《は》いたり、キチガイの乞食女が宮女と同様のキモノを着ていたり、そうかと思うと大昔の軍人と、中昔の軍人とが同じ扮装であったりするので、話だけ聞くと嘘のようであるが、それでいて表現能率は充分に上って行く。否。史実なぞによって扮装を凝《こ》らす芝居なぞよりも遥かに舞台効果が大きいのである。
こうした現象は、やはり扮装の能的単純化から来たものである。すなわち昔は、その役々によって色々の扮装をしたものが、舞台効果を主として洗練されて行くうちに、次第に単純化され共通化されてしまったもので、現在でも、そうした方向にドシドシ進化しつつある。譬《たと》えば大昔の軍人と中昔の軍人と、又は身分の高い狂女と低い狂女とを区別するために、写実的な服装を着せたとすると、仮面という非現実なものの表現とは全然照応しない事になる。服装が写実的ならば、顔も写実的に化粧でも塗って、それらしくメーキアップしなければならぬので、そうなると又パノラマ式の背景がなければならず、演者の挙動や言葉も写実式に行かなければウツラなくなる。すなわち、芝居になってしまって、「舞う」という事が不可能になり、「能」の本領を喪う事
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