価値の低い……演《や》る方も、見る方も張り合いがない……という種類のものは、だんだん舞い捨てられて、遂に現在の二百番内外にまで減少してしまった。その二百番の中でも近来久しく上演されないもので、遠からず廃曲になりそうなのが何十という程ある。一方に、アトに残った芸術価値の高い、僅少な能の曲目は繰り返し繰り返し演出されて、益々洗練を重ねられる。演出価値と観賞価値とを同時に高められて行く。ほかの芸術が新作新作といって無限に殖《ふ》えて行くのとは全然正反対の進化向上の仕方を「能」はして行くので、このような芸術は世界にあまり類例があるまい。事によると、世界唯一のものかも知れないと思われる。
 なお、こうした珍らしい「能」の進化については、もっとよく考えてから今一度話してみたい。能の根本生命……即ち能のヨサ[#「ヨサ」に傍点]はそこから生れて来るのだから……。

     囃  子

 能の初期時代は、能をやる人間が、現在の素人のように、めいめいに入れ代り立ち代り、舞ったり、謡ったり、囃したりしたものではあるまいかと思う。
 ところがその後、各人の天分、好き嫌い等の色々な事情で次第次第に分業になって来ると同時に、その楽器の種類も太鼓、大鼓、小鼓、笛の四ツになってしまったらしい。しかもその一つ一つのために一人の芸術家が一代を擲《なげう》って修業する事になったものと考えられる。従ってその専門とする器楽の演出の、能のリズムに対するタッチが必然的に洗練され、且つ高められて来た事は云うまでもない。
 尚、能の演出の中に鈴、琵琶、鼓の一種でカッコなぞいうものが取り入れてあるが、これは舞を助ける小道具、作物の一種とも見るべきもので実際には奏しない。尤《もっと》も鈴だけは音を立てて拍子を取るが、これは狂言方と云って能役者とは別種の、道化役みたようなものが、三番叟《さんばそう》という舞の中に限って使うに過ぎない。
 尚、前述の太鼓、大鼓、小鼓の三種は能楽演出のリズムを、打音の間拍子で囃すのであるが、そのリズムに対するタッチは全然能楽一流の行き方である。科学的には全然説明出来ないと考えられる位で、容易に説明出来ないからここには略する。笛も亦《また》能楽独特の行き方で、謡の音階や間拍子に合わせるような事は絶対にない。謡の中で吹く時は、謡の音調と全然かけ離れた非音階音を引きまわしたり、波打たせたりしつつ
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